他力本願
有名な「他力本願」という熟語がある。一般的には「他人まかせ」という意味で使われることも多いが本来これは誤用であり、元々は浄土真宗の用語である。『広辞苑』には次のように記載されている。
①阿弥陀仏の本願。
②俗に、もっぱら他人の力をあてにすること。 (『広辞苑 第七版』P.1836より)
ここでは浄土真宗における他力本願の意味を解説する。
他力と本願
『浄土真宗辞典』によれば他力とは
阿弥陀仏の本願のはたらきをいう。 (『浄土真宗辞典』P.468より)
である。
本願とは阿弥陀仏の因位のすがたである法蔵菩薩がおこした願いのことである。その願いの内容は「衆生に阿弥陀仏の救いを信じさせて、名号(南無阿弥陀仏)を称えさせて、浄土に往生させたい」というものである。
法蔵菩薩と阿弥陀仏
法蔵菩薩が兆載永劫(計り知れない年月)の限りない修行に励み、功徳を積み重ねた結果として願を成就し、さとりをひらいたすがたが阿弥陀仏である。その阿弥陀仏の救いの力を他力といい、それが今まさに私たち衆生に向かってはたらいている。
阿弥陀仏と法蔵菩薩は別々の存在ではない。仏教知識「法蔵菩薩」で述べたように、宗祖親鸞は『浄土和讃』の中で
阿弥陀仏は十劫という有限の時間ではなく無限の過去から既に阿弥陀仏であり、その阿弥陀仏が衆生を救うために法蔵菩薩という形をとって現れてくださった (仏教知識「法蔵菩薩」より)
という見方をされた。このことから、他力も本願も阿弥陀仏の救いのはたらきを表す言葉であるといえる。
宗祖親鸞による他力本願の用例
「他力本願」という表現は親鸞の著述の中では『唯信鈔文意』や『親鸞聖人御消息』にみられる。ここでは『親鸞聖人御消息』の該当箇所を引用し、現代語訳を添える。
詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。 (『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.785 より)
結局のところ、名号を称えるといっても、本願他力を信じないようなら辺地に生れることでしょう。本願他力を深く信じる人が、どうして辺地に往生するようなことになるでしょうか。 (『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』P.84 より)
これを読むと「本願他力」といっても「他力本願」と同じ意味になることがわかる。ここでは本願他力ないし他力本願を深く信じて阿弥陀仏の真実の浄土に往生することが勧められており、「本願他力」も「他力本願」も阿弥陀仏が衆生を救うはたらきのことをいっている。
また、「本願他力」という表現はこの他にも『高僧和讃』の曇鸞讃(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.582)、道綽讃(同じくP.588)の中にみられる。
「他人まかせ」ではない
他力を他人の力、本願を自分の願いと解釈してしまうと「他人まかせ」という解釈になってしまう。浄土真宗の用語では、他力は阿弥陀仏の力(はたらき)であり、本願は法蔵菩薩の願いである。浄土真宗の用語としての他力本願を考えるときはここに気をつけるとわかりやすい。
また、他力に対する語に自力があるが「自力本願」とはいわない。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[3] 『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』(本願寺教学伝道研究所 聖典編纂監修委員会 本願寺出版社 2007年)