回向句(願以此功徳~)
概要
勤行(お勤め)の際、「正信念仏偈」「讃仏偈」「重誓偈」『仏説阿弥陀経』などの後に唱えられる文を回向、または回向句という。回向句にはいくつか種類があるが、ここでは最もよく用いられる「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」について解説する。なお勤行については詳しくは仏教知識「勤行」を参照のこと。
出拠(出典)
真宗七高僧第五祖の善導(613-681)が著した『観無量寿経疏』(『観経疏』)という書物がある。この第一巻を「玄義分」といい、その冒頭に「帰三宝偈」と呼ばれる偈文がある。「帰三宝偈」は十四行五十六句から構成されており、その最後の一行四句が「願以此功徳~」の回向句になっている。
願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国 (『真宗聖典全書 第一巻 三経七祖篇』P.656より)
書き下し文は次のようになる。
願はくはこの功徳をもって、 平等に一切に施し、 同じく菩提心を発して、 安楽国に往生せん (『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.299 より)
意味
これを現代語訳すると「願わくは、この功徳が平等に全ての人々に与えられ、皆同じようにさとりの智慧を求める心を発し、極楽浄土へ往生できますように」となる。
「この功徳」≠「私の功徳」
この回向句を読むにあたり、「この功徳」の意味に注意する必要がある。先に述べたようにこの回向句は勤行の最後に唱えられる。そのため「この功徳」を「勤行による功徳」、すなわち「私が勤行によって得た功徳」と解釈してしまいがちである。
そのように解釈してしまうと「私が勤行によって得た功徳を他の人々に与え、共に浄土へ往生したい」という意味になってしまい、勤行を自力として自他の浄土往生のために役立てることになってしまう。我々は絶え間なく湧いてくる煩悩に振り回されている凡夫であるから、我々の勤行によって人々を救う(浄土往生させる)ことは到底不可能である。
我々の浄土往生は自力ではなく阿弥陀仏の他力によるものである。自力と他力については仏教知識「自力」「他力」も参照のこと。
「この功徳」=「阿弥陀仏の功徳」
「この功徳」とは阿弥陀仏の功徳を指している。阿弥陀仏の功徳について以下の記事を引用する。
願を建てた後、法蔵菩薩は兆載永劫(計り知れない年月)の限りない修行に励み、功徳を積み重ねた。そして願を成就し、さとりをひらいて阿弥陀仏となった。 (真宗の本棚「法蔵菩薩」の「法蔵修行」より)
つまり、阿弥陀仏は修行のできない我々凡夫に代わって功徳を積んでくださった。そして、その功徳を我々に施して下さっている。このはたらきを回向という。
全ての人々に「私が功徳を与える」のではなく「阿弥陀仏から功徳が施されている」。そして、そのはたらきを受けた人々が菩提心(さとりの智慧を求める心)を発して極楽浄土へ往生するように願うのがこの回向句である。
勤行の意義
これは「なんのためにお勤めをするのか」という話に関連している。浄土真宗では仏徳讃嘆(阿弥陀仏の功徳を讃える)と仏恩報謝(阿弥陀仏から受ける恩に感謝し報いる)のためにお勤めをする。だから勤行を自力として自他の浄土往生のために役立てようとはしない。
勤行の際の読み方
いくつものお勤めに用いられる「願以此功徳~」の回向句だが、その読み方(節のつけ方)はお勤めによって異なっている。例えば『日常勤行聖典』において「讃仏偈」「重誓偈」『仏説阿弥陀経』の後に記された回向句(P.75, P.89, P.121 参照)の場合は全て同じ音の高さで読む。
また、「正信念仏偈」と「念仏和讃」の後に唱えられる回向句や葬場勤行の最後に唱えられる回向句にはそれぞれ異なった節がついている。
なお、画像の中で文字の横に書かれた記号は博士といい音の高さや読み方を表している。それぞれ『日常勤行聖典』P.45と『浄土真宗本願寺派 葬儀勤行集』P.124を参考に筆者が描いたものであり、正確な表記についてはそれぞれの経本を参照されたい。
この他にも「願以此功徳~」の回向句はさまざまな法要で用いられ、その読み方にも多くの種類がある。
参考文献
[2] 『なるほど浄土真宗』(佐々木義英 本願寺出版社 2015年)
[3] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[4] 『浄土真宗本願寺派 日常勤行聖典』(浄土真宗本願寺派日常勤行聖典編纂委員会 本願寺出版社 2012年)
[5] 『浄土真宗本願寺派 葬儀勤行集』(勤式指導所 本願寺出版社 2007年)