帰三宝偈
『観無量寿経疏』(『観経疏』)第一巻「玄義分」冒頭にある十四行五十六句の偈頌。真宗七高僧第五祖の善導大師(613-681)が著した。「十四行偈」「勧衆偈」とも呼ばれる。
浄土真宗本願寺派では出棺勤行(小冊子『浄土真宗の葬儀のながれ』参照)でこれが勤められる。なお、出棺勤行を省略してこれを葬場勤行(いわゆる葬儀)の中で一緒に勤めることも(筆者の周囲では)多い。
概要
まず善導が、人々に菩提心をおこし生死を超えることを勧める。次に自らが三宝 [※1]に帰依すること、さまざまな仏や菩薩に帰依することを述べ、加護を請う。さらに煩悩具足の身である自分たちが釈尊と阿弥陀仏の教えに出遇えたことを喜び、この『観経疏』を作って釈迦・弥陀二尊の真意を明らかにしたいと述べる。最後に南無阿弥陀仏の功徳を人々に与え、共に菩提心をおこして浄土に往生しようと述べる。
- ※1 三宝
- 仏教徒として帰依し供養すべき仏・法・僧(さとりを開いた人・その教え・その教えをうけてさとりをめざす集団)のこと。詳しくは仏教知識「三宝」を参照。
原文(漢文)と書き下し文と解説
以下、原文は全て『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.655-656、ふりがなは『浄土真宗聖典 −勤行集− 大』P.109-111、書き下し文は何も書いていなければ『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.297-299よりの引用である。なお原文は異体字、旧字は用いず正字に置き換えている。
標題(「帰三宝偈」の直前の文)
(原文)
先勧大衆発願帰三宝
『観経疏』の始め、「帰三宝偈」の前にこの文がある。これに従い「帰三宝偈」を「勧衆偈」ともいう。ここの訓点のつけ方についてはさまざまな説がある。ここでは『歸三寶偈のこころ』を参考にした。
先づ大衆を勧めて願を発して三宝に帰せしむ。 (『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.297より) 先づ大衆を勧めて、発願せしめんとして三宝に帰す。 (『歸三寶偈のこころ』P.1より) 先ず大衆を勧む、願を発して三宝に帰し (『お聖教に学ぶ2 勧衆偈』P.2より) (『帰三宝偈 勧衆偈 の味わい』も同様)
この文では善導が何よりも先に、人々に発願する(浄土に往生したいという心を発す)ことを勧めている。そのために善導は、まず自らが三宝に帰依するところから始めている。自らが阿弥陀仏の本願の救いを信じ、そして人々に発願することを勧めていく。
1行目
(原文)
道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣(書き下し文)
道俗の時衆等、おのおの無上心を発せ。 生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。
ここでは善導が「出家の人も在家の人も、仏になるというこの上ない最高の願いを起こしなさい。このことはそれぞれ自分自身の問題である。人々は迷いの世界に住んでいながらこの生死の世を厭うことをせず、仏法を喜んで求めようともしない。」と述べている。
2行目
(原文)
共発金剛志 横超断四流 願入弥陀界 帰依合掌礼(書き下し文)
ともに金剛の志を発して、横に四流を超断すべし。 弥陀界に入らんと願じて、帰依し合掌し礼したてまつれ。
続いて「だから、共に阿弥陀仏より賜った他力の信心をおこし四暴流 [※2] (四つの迷いの流れ)を断ち切ろう。そして阿弥陀仏の浄土に往生することを願い、帰依し合掌・礼拝しよう。」と述べられる。
- ※2 暴流
- 迷いの因である煩悩のこと。これが一切の善を押し流すので暴流といい、4種を挙げて四暴流といっている。
3行目~7行目1-2句
(原文)
世尊我一心 帰命尽十方 法性真如海 報化等諸仏
一一菩薩身 眷属等無量 荘厳及変化 十地三賢海
時劫満未満 智行円未円 正使尽未尽 習気亡未亡
功用無功用 証智未証智 妙覚及等覚 正受金剛心
相応一念後 果徳涅槃者(書き下し文)
世尊、われ一心に尽十方の 法性真如海と、報化等の諸仏と、 一々の菩薩身と、眷属等の無量なると、 荘厳および変化と、十地と三賢海と、 時劫の満と未満と、智行の円と未円と、 正使の尽と未尽と、習気の亡と未亡と、 功用と無功用と、証智と未証智と、 妙覚および等覚の、まさしく金剛心を受け、 相応する一念の後、果徳涅槃のものに帰命したてまつる。
ここでは善導が釈尊に向かって「私はこれらのものに帰依します」と述べている。帰依する対象を箇条書きにすると次のようになる。
- 法性真如海と報化等の諸仏
- 法性法身と報仏(報身仏)、化仏(応身仏)のこと。すなわち仏の三身。
- 一々の菩薩身と、眷属等の無量なる
- それぞれの仏の元で修行している一人一人の菩薩たちと、無数の親族や従者たち。
- 荘厳および変化
- 仏・菩薩たちの荘厳身(浄らかに身を飾ったすがた)と変化身(神通力によりさまざまに変化したすがた)。
- 十地
- 菩薩が仏になるまでの段階である五十二位(仏教知識「菩薩」参照)のうち「聖者」とされる第41位から第50位までの10段階のこと。
- 三賢
- 同じく五十二位のうち「賢者」とされる第11位から第40位までの30段階、十住・十行・十回向のこと。自らの煩悩と戦いながらそれでも自利・利他を成就しようと努めている。なお、第1位から第10位までの10段階である十信は凡夫の位とされる。
- 時劫の満と未満
- 菩薩道の果てしなく長い時間を修めた者と、そうでない者。
- 智行の円と未円
- 六波羅蜜の修道が完全に円満に成就した者と、そうでない者。
- 正使の尽と未尽
- 使は煩悩の異名、正使は煩悩の本体。これを断じ尽くした聖者と、そうでない凡夫。
- 習気の亡と未亡
- 煩悩が尽きても惑いの気分が習慣性として残るものを習気という。これが全く亡くなった仏と、まだ亡くなってはいない菩薩。
- 功用と無功用
- 功用とは努力のこと。五十二位の十地(第41位~第50位)のうち初地から七地(第41位~第47位)までの菩薩には自分が確かに修行しているという思いがある。これが八地から十地(第48位~第50位)までの菩薩になると、意識しなくとも自然な状態で修行ができる。これを功用、無功用といっている。
- 証智と未証智
- 悟りの智慧が開けた者と、そうではない者。
- 妙覚
- 五十二位の最後の階位(第52位)。煩悩を断ち切り、智慧と慈悲が完成した位。仏のこと。
- 等覚の、まさしく金剛心を受け、相応する一念の後、果徳涅槃のもの
- 等覚とは五十二位のうちの第51位で、まもなく仏になろうとする位をいう。ここでは如来より金剛心(信心)をいただいており、すべての惑いを滅して仏果を証することができたその一念のときに果徳涅槃者(妙覚)となれる者と述べられる。
このように、善導はさまざまな仏や菩薩、さまざまな眷属等に帰依することを述べた。また、何度も出てきた五十二位(『菩薩瓔珞本業経』に説かれる五十二位説)については図にまとめた。
7行目3-4句、8行目1-2句
(原文)
我等咸帰命 三仏菩提尊
無礙神通力 冥加願摂受(書き下し文)
われらことごとく三仏菩提の尊に帰命したてまつる。 無礙の神通力をもつて、冥に加して願はくは摂受したまへ。
ここでは善導が菩提(さとり)に導いてくださる仏に帰依することを述べている。三仏菩提の尊とは「法身・報身・化身の三身。または弥陀・釈迦・諸仏」(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.298より)である。ここでは主語が「我ら」となっており、善導が自分一人の問題に留めずに人々の意をくみとっている。そして無礙の(何ものにも碍げられない)神通力をもって冥加[※3]を願う。
- ※3 冥加
- 如来や聖者がその優れた力を菩薩や衆生に加え、被らせることを加被という。加備、加護ともいう。目に見える加被を顕加、目に見えない加被を冥加(人知れず冥々のうちに加護を被る)という。
8行目3-4句、9行目
(原文)
我等咸帰命 三乗等賢聖
学仏大悲心 長時無退者 請願遥加備 念念見諸仏(書き下し文)
われらことごとく三乗等の賢聖の、仏の大悲心を学して、 長時に退することなきものに帰命したてまつる。 請ひ願はくははるかに加備したまへ。念々に諸仏を見たてまつらん。
ここでは三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の者に帰依することを述べている。そして三乗の者を「賢聖」として敬い、仏の大いなる慈悲の心を学んで永遠に退転することがない身になれる者だと述べている。そして加備(加被、加護)をこの三乗の者に請い、念々に(一瞬一瞬に)諸仏を見せたまえと願っている。
10行目~11行目
(原文)
我等愚痴身 曠劫来流転 今逢釈迦仏 末法之遺跡
弥陀本誓願 極楽之要門 定散等廻向 速証無生身(書き下し文)
われら愚痴の身、曠劫よりこのかた流転して、 いま釈迦仏の末法の遺跡たる 弥陀の本誓願、極楽の要門に逢へり。 定散等しく回向して、すみやかに無生の身を証せん。
ここでは善導が自分たちのことを、無限の過去から迷い続けており愚痴から抜け出ることができない凡夫であると述べている。そして、釈尊が末法の世に遺された教えである弥陀の本誓願(弘願といわれる第十八願)と極楽の要門(浄土に往生するための肝要な門)にまさに「今」遇えたことを述べる。
そして『観無量寿経』に説かれる定善十三観・散善三観の行を行う者が他力に廻入(自力をひるがえし、阿弥陀仏の本願の救いにまかせること)すれば、速やかに涅槃に至り浄土でさとりを得ると述べる。
12行目~13行目1-2句
(原文)
我依菩薩蔵 頓教一乗海 説偈帰三宝 与仏心相応
十方恒沙仏 六通照知我(書き下し文)
われ菩薩蔵頓教、一乗海によりて、 偈を説きて三宝に帰して、仏心と相応せん。 十方恒沙の仏、六通をもつてわれを照知したまへ。
ここでは善導が自らが依りどころとするものを「菩薩蔵[※4]」「頓教[※5]」「一乗海[※6]」であるといい、この「帰三宝偈」を作って三宝に帰依したいと述べた。また、自らの名誉のために偈を作るのではなく、これは仏の心と相応した帰依の心からの行いであると述べている。そして十方の数かぎりない仏がたに、六神通(6つの不思議な力)をもって私を照らしたまえと述べている。
- ※4 菩薩蔵
- 仏のさとりに至る道を説く教え。大乗の菩薩の教えのこと。大乗教。
- ※5 頓教
- すみやかに仏果を得る教法。長時間の修行により次第にさとりを得る漸教に対する語。親鸞は浄土門の教えの中でも『無量寿経』の第十八願の教えを頓教であるとした。しかし、ここでは善導は聖道門の教えと対比して『観無量寿経』を頓教としている。
- ※6 一乗海
- 『観無量寿経』の教えが全ての人々を平等にさとりに至らせる教えであり、同一の大乗の無上のさとりに至らせる教えであることからこのように表現された。
13行目3-4句
(原文)
今乗二尊教 広開浄土門(書き下し文)
いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の教に乗じて、広く浄土の門を開く。
二尊とは釈尊と阿弥陀仏、二尊の教とはそれぞれが説かれた要門の教えと弘願の教えをいう。仏教知識「六三法門」の「要弘二門」にもあるように、善導は『観無量寿経』について要門と弘願門の2つの解釈を示した。
乗ずるとは信じるということである。善導はこの要門と弘願の教えを信じると述べた。浄土の門を開くというのは真実の救いが人々のために開かれたということをいっている。「広く」というのは、煩悩具足の凡夫でも通れるような広い門を表している。また直前に「いま二尊の教に乗じて」と書くことで、釈尊・阿弥陀仏の要門・弘願の教えによってこそ「広く浄土の門を開く」ことが可能であると示した。
14行目
(原文)
願以此功徳 平等施一切
同発菩提心 往生安楽国
(書き下し文)
願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、 同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。
これは回向句として広く知られた文である(仏教知識「回向句(願以此功徳~)」参照)。善導は「広く浄土門を開いた功徳」を、平等に一切の衆生に施したいと述べた。なお、この功徳は善導の功徳ではなく阿弥陀仏から施された「南無阿弥陀仏」の功徳を指している。
3-4句目は七高僧第二祖の天親菩薩が著した『浄土論』冒頭に記された偈頌の最後にある
(原文)
我作論説偈 願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国 (『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.434より) (書き下し文)
われ論を作り偈を説く。願はくは弥陀仏を見たてまつり、あまねくもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん。 (『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.32より)
の3-4句目、「あまねくもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん。」と同じ意味である。「菩提心」は他力の菩提心をいう(仏教知識「菩提心」も参照のこと)。ここでは「同じく」と述べ、如来よりたまわった菩提心を共におこし、浄土に往生しようと呼びかけられている。
また、ここでは浄土を表す言葉として『観無量寿経』の「極楽」ではなく『無量寿経』の「安楽国」が用いられている。『観無量寿経』の本意が『無量寿経』の本願の教えにあると善導が解釈していたことが伺える。
参考文献
[2] 『帰三宝偈 勧衆偈の味わい』(藤枝宏壽 永田文昌堂 2017年)
[3] 『お聖教に学ぶ2 勧衆偈』(蓬茨祖運著 蓑輪秀邦補訂 東本願寺出版 2015年)
[4] 『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[5] 『浄土真宗聖典 −勤行集− 大』(教学振興委員会 編 本願寺出版社 1973年)
[6] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[7] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[8] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)