『安心論題 二』- 三心一心 後編

【あんじんろんだい 02 さんしんいっしん 02】

安心論題あんじんろんだい(十七論題)」にもうけられた論題の一つ。三心一心はその2番目に位置づけられる。この記事は後編である。先に前編を参照されたい。

そう(本論)続き

ぶつの三心としゅじょうの三心

しんしんぎょうよくしょうの三心はもともと衆生において語られるものであるが、それが如来にょらいからこうされた三心であることを表すためにさまざまな立場からかいしゃくがなされている。三心は阿弥陀あみだぶつによって完成され、私たち衆生に与えられる。つまりこの三心には「仏によって完成された心」というとらえ方と、「私たち衆生に与えられたしん」という捉え方ができる。仏の心と衆生の心、二つの面を持っているのである。三心のそれぞれについて「これは仏の心か、衆生の心か」という二択で考えていくと計8通りの組み合わせが考えられる。また、三心のうち仏の心が何個、衆生の心が何個あるかによって分類することもできる。いずれにせよ8通りである。こちらの分類にしたがい、それぞれの場合について考察する。

至心 信楽 欲生   衆生 パターン
三心なし1通り
衆生 二心一心3通り
衆生
衆生
衆生衆生 一心二心3通り
衆生衆生
衆生衆生
衆生衆生衆生 なし三心1通り

三心とも仏

三心の全てを仏が完成された心と解釈する場合、これを約仏やくぶつの三心という。これについて考える。三心は阿弥陀仏によって完成されて衆生に与えられる。一方論題「聞信もんしんそう」(仏教知識「『安心論題 一』- 聞信義相」参照)で述べたように、みょうごう南無なも阿弥陀あみだぶつという阿弥陀仏の救いのはたらきがそのまま衆生の信心として成り立っているともいえる。これらを合わせて考えると、阿弥陀仏によって完成された三心は名号南無阿弥陀仏となってはたらいている。この名号には仏の智慧ちえと仏の慈悲じひが欠けるところなくそなわっている。この智慧を仏の至心、慈悲を仏の欲生とし、これらが完成することにより「衆生を必ず救いとれることに何の疑いもない」という仏の信楽が成立する。つまり、至心と欲生との二心により信楽一心が成り立つといえる。これを「しんじょういつ」という。

仏が二心、衆生が一心(仏二生一)

三心を仏の心と衆生の心に分ける場合、これをしょうぶつ相望そうもうの三心という。まず三心のうち1つだけを衆生の心とする場合について考える。3通りのパターンが考えられるが、ここでは信楽のみが衆生の心と考えるのが適切である。親鸞が私たちの信心を表現する場合は「無疑むぎ」で表現する場合がほとんどであり、無疑とはすなわち信楽である。また「三心が一心におさまる」とは、「私たちの信心は至心・信楽・欲生という別々の三心ではなく、無疑の一心である」ということである。だから三心の中で一つだけを衆生の心と考えるなら、それは信楽である。

この場合は至心と欲生が仏の心ということになり、至心を仏の智慧の徳、欲生を仏の慈悲の徳と考える。そして、阿弥陀仏の智慧と慈悲とが欠け目なく完成された名号南無阿弥陀仏の救いに我が身の全てをゆだねるのが衆生の信楽である。

仏が一心、衆生が二心(仏一生二)

1つだけを仏の心として考える場合は、至心を仏の心と考えるのが適切である。至心とは真実心であり、仏の心を表現するのであればこれが最もふさわしいといえる。残る2つは衆生の心となり、信楽は衆生の無疑心、そして欲生は無疑心に具わっているけつじょうようの心、つまり間違いなくじょうに生まれることができるという心と解釈する。

三心とも衆生

三心全てを衆生の心と考える場合、これを約生やくしょうの三心という。次の3つの見方がある。

さんじゅうしゅったい

三重出体とは三一問答の第二問答に述べられた至心・信楽・欲生の三心それぞれに関する解釈のことである。ここには「至心のたい(本質)は名号である」「信楽の体は至心である」「欲生の体は信楽である」ということが書かれている。

まず「至心の体は名号である」というのは、「名号すなわち阿弥陀仏の救いのはたらきによって至心が成立している」ということである。つまりこの心は私たち衆生が自分で造りあげた信心ではなく、阿弥陀仏のはたらきによって成立している信心なのである。

次に「信楽の体は至心である」といわれる。私たちの信心とはがいぞうという心であり、この心のすがたが信楽である。そして、この信心の本質は仏のはたらきによって成立している真実心、つまり至心なのである。

そして「欲生の体は信楽である」といわれる。欲生とは間違いなく浄土に生まれることができると考え、往生おうじょうを待ち受ける決定要期の心である。これは本願・名号・仏願の生起しょうき本末ほんまつ(仏教知識「仏願の生起本末」参照)を疑わない心(無疑心)、すなわち信楽から浄土往生を疑わない心を別に取り出したものといえる。このことから欲生は信楽のべつといわれる。信楽に本来具わっている義を別に開いて出したのが欲生という意味である。

これを信楽を中心に見ると、至心とは信楽の本質である真実心のことであり、欲生とは信楽に本来具わっている心を別に取り出した心である。つまり、至心・欲生の二心は信楽と別個の心というわけではない。仏教知識「三一問答 (4)」も参照のこと。

② 至心は智慧、欲生は慈悲

信楽は往生成仏の因であるから、私たち衆生を浄土へと往生させさとりへと至らせる徳を具えている。その徳の智慧の面が至心、慈悲の面が欲生であるとする解釈がある。

③ 心を至して信楽する

また親鸞が「至心信楽」に「心を至し信楽して」と送り仮名をつけている箇所がある。この場合、至心は信楽を形容する言葉となり、その信じぶりがこの上もないことを表す。欲生に関しては先ほどと同様、信楽のべつとみる。

(前略)『大経だいきょう』(上)にのたまはく、「たとひわれぶつたらんに、十方じっぽう衆生しゅじょうこころいた信楽しんぎょうしてわがくにうまれんとおもひて、乃至ないし十念じゅうねんせん。(後略)

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.212より)

つまり三心全てを衆生の心とする場合にはこの3つの見方が成立する。いずれの場合も至心と欲生の二心が信楽一心におさめられている構造になっており、これを一心いっしんしょうという。

  至心 欲生
信楽の体 信楽の義別
信楽に具わる智慧 信楽に具わる慈悲
信楽の信じぶりを形容する 信楽の義別

三心即一

以上見てきたように三心については種々の見方があるが、第十八願からいえばこの三心は衆生の往生成仏のいんなのであるから衆生の心として解釈するのが自然な解釈である。そして衆生の信心のすがたを的確に示すのは三心の中の信楽であって、至心・欲生の二心はこの信楽一心におさまるとするのである。

信楽と欲生の関係

これまでみてきたように欲生は信楽から開いて取り出した心であり、三心の中心になるのは欲生ではなく信楽である。ところが、信楽が願生心という言葉で表現される場合がある。しゅう親鸞しんらんは『禿とくしょく』において次のように述べている。

のうしょう清浄しょうじょうがん往生おうじょうしん」といふは、
無上むじょう信心しんじん金剛こんごう真心しんしん発起ほっきするなり、これは如来にょらい回向えこう信楽しんぎょうなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.537より)

この場合は二河にが白道びゃくどうたとえ(仏教知識「二河白道 (1)」「二河白道(2)」参照)における「清浄願往生心」を「如来回向の信楽なり」と示されている。これは信楽であって欲生ではない。親鸞がこのような表現を用いたのは、浄土真宗の信心が仏教で一般にいわれている信とは性格が異なっていることを表すためであった。往生浄土に関して阿弥陀仏の本願ほんがんりきに私のすべてを委ねてしまうという信を表すために願という言葉を用いたのであって、これは欲生のことをいっているのではない。

また『高僧こうそう和讃わさん』において「信は願より生ずる」といわれているが、この願は衆生の願心ではなく如来の願心である。

(八二)
しんがんよりしょうずれば 念仏ねんぶつ成仏じょうぶつ自然じねんなり
自然じねんはすなはち報土ほうどなり しょうだい涅槃ねはんうたがはず

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.592より)

天親てんじん菩薩ぼさつ功績こうせき

前編の最初に述べたように、本願に誓われた至心・信楽・欲生の三心を一心と示したのは天親菩薩である。この功績をたたえて「合三がっさんいち論主ろんじゅ(天親)のしゃくこう」といわれる。

仏説ぶっせつりょう寿じゅきょう』(『だいきょう』)には本願文ほんがんもん(第十八願文)と本願成就じょうじゅもん(第十八願成就文)が説かれており、本願文には信楽、本願成就文には信心歓喜かんぎと述べられる。本願文では「至心信楽欲生我国乃至十念」として、乃至ないしで三心すべてを受けている。一方本願成就文では「信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国」とある。ここでは乃至で受けるのは信心歓喜のみであり、至心と願生(欲生)は乃至の後にある。さらに、ここに説かれる「一念」の語は親鸞によれば「一心」である。

一念いちねん」といふは、信心しんじん二心にしんなきがゆゑに一念いちねんといふ。これを一心いっしんづく。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.251より)

つまり三心が一心におさまることはもともと『大経』の本願成就文の中に示されているのである。このことを「三心即一は法義の固有」という。ただし、『大経』の中に既に三心一心が示されているといっても実際には「一心」ではなく「一念」という言葉が用いられている(これを一心といわれたのは天親よりも後の親鸞である)。また「一心」の語が使われている『仏説阿弥陀経』については他力念仏と自力念仏というおんけんの2つの見方ができる(仏教知識「顕彰隠密」参照)ため、これは純粋に他力の信心をあらわしているとはいえない。よって、三心が一心におさまることはきょうもんにもともと書いてあったというよりは天親によって初めて明らかにされたと考えるのである。

結び(結論)

本願(第十八願)には至心・信楽・欲生という三心が示されている。このうち至心と欲生の二心は本来信楽一心におさまっているものである。だから、他力信心とは結局のところ信楽一心にほかならないのである。

参考文献

[1] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[2] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2002年)
[3] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[4] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)

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