『安心論題 一』- 聞信義相

【あんじんろんだい 01 もんしんぎそう】

安心論題あんじんろんだいじゅうしち論題ろんだい)」にもうけられた論題の一つ。聞信義相はその1番目に位置づけられる。

題意(概要)

じょうしんしゅう聞法もんぼう(教えを聞くこと)の宗教といわれる。また浄土真宗において最も大切なものは信心しんじんであるともいわれる。この論題では聞くことと信心、すなわちもんと信との関係を明らかにする。その関係とは「聞即信もんそくしん」といわれるものであり、これは聞くことがそのまま信であるということであり、聞のほかに信はないということである。このことを明らかにしていく。

なお、聞くことがそのまま信であるとは、聞くことがそのまま「信心」であるということではなく聞くことが「信心を成立させる要因」だということである。また、聞くことを要因とせずに成立する信心というものもありえない。

しゅっ(出典)

聞と信はきょうてんのさまざまな箇所に出てくるが、この論題では『仏説ぶっせつりょう寿じゅきょう』のだいじゅうはちがんじょうじゅもん本願ほんがんじょうじゅもん)に説かれる「聞」と「信心」の関係を問題にする。したがってこの論題の出拠は本願成就文である。以下にこれを引用する。なお引用のやり方は仏教知識「四十八願」の「個々の願文について」に準じる。

【漢文】
しょしゅじょうもんみょうごう信心しんじんかんない一念いちねんしんこうがんしょうこくそくとくおうじょうじゅう退轉たいてん唯除ゆいじょぎゃくほうしょうぼう

(『佛事勤行 佛説淨土三部經』P.64-65より、下線は筆者が引いた) 【書き下し文】
あらゆる衆生しゅじょうその名号みょうごうきて信心歓喜しんじんかんぎせんこと乃至一念ないしいちねんせん。至心ししん回向えこうしたまへり。かのくにうまれんとがんずれば、すなはち往生おうじょう不退転ふたいてんじゅうせん。ただ五逆ごぎゃく誹謗正法ひほうしょうぼうとをば除く

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.41より)

しゃくみょう(語句の定義)

聞信義相の「聞」とは、みょうごう南無なも阿弥陀あみだぶつ)の正しい意味の通りに聞く聞き方のことである。この聞き方はりきの聞であり、如実にょじつの聞といわれる。一方、名号の正しい意味の通りに聞かない聞き方はりきの聞であり、如実にょじつの聞といわれる。

「信」とは第十八願の信心(しんぎょう)のことである。つまり、疑う気持ちのないしんであり、阿弥陀仏の他力によりこうされた信心である。

「義相」とは「意義とそうじょう」(意味するところとそのあり方)という意味である。

つまり聞信義相とは「名号の正しい意味を聞くことと他力の信心について、それぞれの意味するところとそのあり方」という意味になる。

自力、他力については仏教知識「自力」、「他力」も参照のこと。

そう(本論)

仏願の生起本末を聞く

本願成就文の「聞」と「信」の関係についてしゅう親鸞しんらんは『けん浄土じょうど真実しんじつ教行証きょうぎょうしょう文類もんるい』(『きょうぎょうしんしょう』)「信文類しんもんるい」の中で次のように述べた。

しかるに『きょう』(大経・下)に「もん」といふは、衆生しゅじょう仏願ぶつがんしょう本末ほんまつきて疑心ぎしんあることなし、これをもんといふなり。「信心しんじん」といふは、すなはち本願力ほんがんりき回向えこう信心しんじんなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.251より)

【現代語訳】
ところで『りょう寿じゅきょう』に「もん」とかれているのは、わたしたち衆生しゅじょうが、仏願ぶつがんしょう本末ほんまついて、うたがいのこころがないのをもんというのである。「信心しんじん」 というのは、如来にょらい本願力ほんがんりきよりあたえられた信心しんじんである。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 P.233より)

また『一念いちねん多念たねん文意もんい』には

もんみょうごう」といふは、本願ほんがん名号みょうごうをきくとのたまへるなり。きくといふは、本願ほんがんをききてうたがふこころなきを「もん」といふなり。またきくといふは、信心しんじんをあらはすのりなり。「信心しんじんかんない一念いちねん」といふは、「信心しんじん」は、如来にょらいおんちかひをききてうたがふこころのなきなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.678より)

とも述べている。

何を聞くかというと「仏願の生起本末を聞く」のである。「仏願の生起本末を聞く」とは阿弥陀仏の名号のいわれを疑う心を持たずに聞いていく(如実の聞)ことであり、これはすなわち信心である。詳しくは仏教知識「仏願の生起本末」にまとめているのでそちらを参照のこと。

疑心あることなし

また、どのように聞くのかということについて「疑心あることなし」と述べている。これが先に述べた如実の聞である。つまり、仏願の生起本末の通りに聞くという聞き方が疑心あることなしという聞き方なのである。仏願の生起本末をそのまま受け入れることだといえる。

親鸞は疑心を自力心、また信罪しんざいふくしん(『教行信証』「しん文類もんるい」などに現れる)と示している。

じょうさん専心せんしんとは、罪福ざいふくしんずるしんをもつて本願力ほんがんりき願求がんぐす、これをりき専心せんしんづくるなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.399より)

信罪福心とは、自らの行う悪は罪(悪い結果を引き起こす力を持った行為)であり自らの行う善は福(い結果を引き起こす力を持った行為)であると信じる心である。この心は仏教一般にいえば間違っているわけではない。しかし罪を信じるとは自らの行う悪の力が本願の力よりも強い影響を持つと信じることであり、福を信じるとは本願の力だけでは浄土におうじょうするには不足であり自らの行う善の力も付け加えなくてはいけないと信じることである。この心は仏願の生起本末をそのまま受け入れる心とはあいれない。

聞即信

先に述べたように、本願成就文の「聞」とは「疑心あることなく聞く」聞き方である。つまり聞はそのまま信である。これを聞即信という。これについても仏教知識「仏願の生起本末」にまとめているのでそちらを参照のこと。

如実の聞と不如実の聞

ここで先に出拠のところで用いた「如実」「不如実」という単語について、本願成就文の聞と『仏説無量寿経』の第二十願の聞とを対比させてみる。

【本願成就文】
その名号みょうごうきて

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.212より)

【第二十願】
わが名号みょうごうきて

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.18より)

どちらも「名号を聞きて」だが、「その」と「わが」の違いがある。これは主語の違いによるものである。本願成就文の主語は釈尊、第二十願の主語は阿弥陀仏である。主語が違うだけでどちらも同じ阿弥陀仏の名号についていわれている。

本願成就文には「信心しんじんかん」する他力の信が説かれており、第二十願には「しんこうよくしょう」という自力の信が説かれている。同じ阿弥陀仏の名号を聞いていても、他力の信と自力の信の違いが生じている。これは「聞」が違うためである。本願成就文の聞は如実の聞といわれ、第二十願の聞は不如実の聞といわれる(「聞き損じ」ともいわれる)。

つまり同じように「お念仏ねんぶつ一つでお浄土に生まれることができる」と聞いていても、不如実の聞は自力の信を生み出す。自らがとなえる念仏が浄土に往生するために役立つという考え方である。これは名号の真実の意味・いわれの通りに聞かない聞なのである。一方、如実の聞は他力の信を生み出す。自らの行いは浄土に往生するためには何の役にも立たないと考え、名号のはたらき一つによって救われる喜びや感謝の気持ちから念仏の生活を続けるのである。 これは名号の真実の意味・いわれにかなった聞である。

結び(結論)

聞信義相とは、本願成就文に説かれた聞と信の義相(意味するところとそのあり方)を明らかにする論題である。この聞とは如実の聞である。それは仏願の生起本末を疑心あることなく聞く、すなわち名号のいわれをそのまま受け入れることをいう。つまり聞くことがそのまま信心であり、これを聞即信という。

聞くことのほかに信心はない。また、聞かれる名号がそのまま信心となる。この信心は他力によって回向された信心である。

参考文献

[1] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2002年)
[2] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[3] 『佛事勤行 佛説淨土三部經 (第二十刷)』(浄土真宗本願寺派 教学振興委員会 2003年)
[4] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[5] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)

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