仏願の生起本末

【ぶつがんのしょうきほんまつ】

仏願の生起本末とは阿弥陀あみだぶつ名号みょうごう南無なも阿弥陀あみだぶつ)のいわれを表す言葉である。名号について、『仏説ぶっせつりょう寿じゅきょう』のだいじゅうはちがんじょうじゅもん本願ほんがん成就文)に次のように説かれている。

あらゆる衆生しゅじょう、そのみょうごうきて信心しんじんかんせんこと、ない一念いちねんせん。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.41より)

仏願の生起本末という言葉はこれを解説するために用いられた。しゅう親鸞しんらんは「その名号を聞きて」のもんを解釈し、『けん浄土じょうど真実しんじつ教行証きょうぎょうしょう文類もんるい』(『教行信証きょうぎょうしんしょう』)「信文類しんもんるい」の中で次のように述べた。

しかるに『きょう』(大経・下)に「もん」といふは、衆生しゅじょう仏願ぶつがんしょう本末ほんまつきて疑心ぎしんあることなし、これをもんといふなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.251より)

【現代語訳】
ところで『りょう寿じゅきょう』に「もん」とかれているのは、わたしたち衆生しゅじょうが、仏願ぶつがんしょう本末ほんまついてうたがいのこころがないのをもんというのである。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 P.233より)

これによれば名号を聞くというのは「仏願の生起本末を聞く」ことであり、そして「疑いの心をまじえずに聞く」ことである。

仏願の生起を聞く

仏願とは法蔵ほうぞうさつがおこされた(誓われた、建てられた)本願(第十八願)のことである。生起とは法蔵菩薩が本願を起こさなければいけなかった理由である。それはつまり、みずからの力では決して迷いの世界より出ることのできないしゅじょうを救うためであった。そのために「必ず救う」という本願をおこされた。

親鸞は『教行信証』「信文類」に次のように述べた。

まことにんぬ、かなしきかな禿とくらん愛欲あいよく広海こうかい沈没ちんぼつし、みょうたいせん迷惑めいわくして、じょうじゅかずることをよろこばず、真証しんしょうさとりちかづくことをたのしまざることを、づべしいたむべしと。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.266より)

【現代語訳】
いま、まことにることができた。かなしいことに、禿とくらんは、愛欲あいよくひろうみしずみ、みょうふかやままよって、しょうじょうじゅはいっていることをよろこばず、真実しんじつのさとりにちかづくことをたのしいともおもわない。はずかしく、なげかわしいことである。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 P.260より)

また『しょうぞうまつさん』では次のように述べた。

じょうしんしゅうすれども 真実しんじつしんはありがたし
虚仮こけじつのわがにて 清浄しょうじょうしんもさらになし

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.617より)

【現代語訳】
じょう真実しんじつおしえに帰依きえしているけれども、このわたしがまことのこころをもつことなどありない。
うそいつわりばかりのわがであり、きよらかなこころなどあるはずもない。

(『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』P.182より)

これらを読めば、親鸞自身が自らの煩悩ぼんのうを恥じており、真実の心も清浄しょうじょうの心も無いわが身であると考えていたことがわかる。つまり親鸞は自らの力では決して迷いの世界を抜け出すことができないと考えていた。

親鸞にならって解釈すると、「仏願の生起を聞く」とは決してこの迷いの世界から抜け出すことのできない「ほかでもないこの私」を救うためにおこされた本願を聞くことになる。

仏願の本末を聞く

本末とはいんである。本が因、末が果にあたる。仏願の因とは、本願がどのように誓われどのような行によって成就されていったのかということである。仏願の果とは、その願と行とが成就して、願いのとおりに衆生を救いつつある阿弥陀仏のはたらきである。いんの法蔵菩薩が本願を誓い、それを成就して果位かいの阿弥陀仏となり、救いの力がはたらいている(仏教知識「法蔵菩薩」も参照のこと)。

これらを「疑心あることなく」聞いていくことが本願成就文の「名号を聞く」ことになる。

疑心あることなし

では「疑心あることなく」聞くとはどういうことだろうか。疑いをもって聞くというのは、本願の救いを受けれないということである。阿弥陀仏の本願の救いとは人間の理解を超えたものであり、それを人間の能力の範囲内で理解しようとしても「わからない、受け容れられない」となる。これを自力のはからいともいう。また同様に人間の能力の範囲内で考えて「わかった」つもりになることも、実は本願を疑っていることになる。これも自力のはからいである。

それに対し、人間の理解能力を役立たせず阿弥陀仏の本願をおおせの通りに聞いて受け容れていることを「疑いなく聞いている」、「自力のはからいをまじえない」などという。このような聞き方を「如実にょじつもん」(※1)といい、自力のはからいをまじえた聞き方、つまり疑う心をまじえた聞き方を「如実の聞」という。つまり「信文類」に「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と述べられているのは、この「如実の聞」をあらわしている。この如実の聞が本願文では「しんぎょう」と説かれ、本願成就文では「信心しんじんかん」と説かれている。

※1 如実の聞
「名号が私たちに告げようとされている本願のいわれ(実義)にかなって(如)、仰せのとおりに聞いている」こと。(『聖典セミナー 教行信証 信の巻』P.324より)

不如実の聞

名号のいわれをまともに聞かずに自分の思いはからいをまじえながら聞いていることを不如実の聞という。第二十願にはそのような名号の聞き方が説かれている。第二十願のぎょうじゃは、少しでも多くの名号をとなえ、それによってどくを積み重ね(とくほんを植え)、その力により浄土へとおうじょうしようとする。せっかく阿弥陀仏の名号を聞いているのに、聞き方が間違っているから自力のはからいをまじえた念仏を称えてしまうのである。

信によって聞を説明する

親鸞は『一念いちねんねんもん』にも

きくといふは、本願ほんがんをききてうたがふこころなきを「もん」といふなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.678より)

【現代語訳】
くというのは、如来にょらい本願ほんがんいて、うたがこころがないのを「もん」というのである。

(『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』P.5より)

と述べている。「本願を聞いて疑う心が無い」という文章を用いて、本願成就文に出てくる「聞」を説明しているのである。「疑いなく信じていること」、つまり信心によって聞を説明している。このことは「信によって聞をあらわす」や「聞即信もんそくしん」(聞はすなわち信である)などといわれる。

聞によって信を説明する

また親鸞はこれに続けて

またきくといふは、信心しんじんをあらはすのりなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.678より)

【現代語訳】
またくというのは、信心しんじんをおしめしになる言葉ことばである。

(『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』P.5より)

とも述べている。「聞く」という言葉によって信心の性質を説明している。これを「信即聞しんそくもん」(信はすなわち聞である)という。本願の信心とは人間の思いつきや人間が考えて作り出すような心ではないのである。「私があなたを救おう」という阿弥陀仏のびかけを私のはからいをまじえずに聞き、受け容れていることを信心というのである。本願成就文の「その名号を聞きて信心歓喜する」という文は、このこと以外に信心は無いということを表している。

まとめ

仏願の生起本末とは本願の生起と本願の本末のことである。本願の生起とは阿弥陀仏が本願をおこされた理由である。阿弥陀仏は自らの力では決してさとりをひらくことのできない、ほかでもないこの私を救うために本願をおこされた。本願の本末とは本願の因と果である。本願の因とは法蔵菩薩のほつがんと修行である。本願の果とはそれらが成就し、名号となって今まさに衆生を救う力としてはたらいていることである。まとめると、仏願の生起本末とは阿弥陀仏の名号のいわれということになる。

また、親鸞は「仏願の生起本末を聞く」と述べた。ここでいう「聞く」とは、これらのことを自分の能力で理解しようとするのではなく疑う心を持たずに聞いていくことである。これを「如実の聞」という。これが「仏願の生起本末を聞く」ということであり、信心なのである。

参考文献

[1] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[2] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[3] 『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2016年)
[4] 『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』(本願寺出版社 2001年)
[5] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[6] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2008年)
[7] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)

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