『安心論題 二』- 三心一心 前編
「安心論題(十七論題)」に設けられた論題の一つ。三心一心はその2番目に位置づけられる。長くなるので記事を2つに分けており、この記事は前編である。後編はこちらを参照のこと。
題意(概要)
『仏説無量寿経』の第十八願文に説かれる至心・信楽・欲生(我国)の「三心」と、天親菩薩(真宗七高僧第二祖)が著した『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』)にある「一心」との関係を考察し、至心・信楽・欲生の三心は至心と欲生が信楽一心におさまること、すなわち三心は一心におさまるということを明らかにする。
出拠(出典)
この論題では第十八願文の三心と『浄土論』の一心を問題にするので、出拠となるのはこの2つである。以下にこれを引用する。なお前者の引用のやり方は仏教知識「四十八願」の「個々の願文について」に準じる。
『仏説無量寿経』「第十八願文」
【漢文】
設我得佛・十方衆生・至心信樂・欲生我國・乃至十念・若不生者・不取正覺・唯除五逆・誹謗正法(『佛事勤行 佛説淨土三部經』P.64-65より、下線は筆者が引いた)
【書き下し文】
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.18より、下線は筆者が引いた)
『浄土論』
世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国
(『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.434より、旧字は筆者が新字に変換し下線は筆者が引いた)
【書き下し文】
世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.29より、下線は筆者が引いた)
この論題の根拠となるのはこれら二つの文であるが、三心一心という論題を考えるにあたって重要なのは宗祖親鸞が著した『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)「信文類」の三一問答といわれる部分である。この中で親鸞は三心と一心の関係を問い、それに自ら答えを示している。詳しくは仏教知識「三一問答 (1)」を参照のこと。また、同様の文が『浄土文類聚鈔』にもある。
釈名(語句の定義)
三心
「三心」とは第十八願の至心・信楽・欲生のことである。それぞれ次の意味を持っている。
- 至心 …… 真実心
- 信楽 …… 疑いの無い心、疑蓋無雑(※1)
- 欲生 …… 決定要期(※2)、作得生想(※3)
- ※1 疑蓋無雑
- 疑蓋とは疑いの蓋をすることによって自らの心を閉ざし本願の救いを拒否すること。無雑とは(その疑いが)全くまざらないことをいう。
- ※2 決定要期
- なんとかして浄土に生まれたいと思う心ではなく、必ず浄土に生まれることができると思い、それを待ちうける心。間違いなく生まれることができることを決定といい、そのことを待つのを要期という。
- ※3 作得生想
- 必ず浄土に往生できると思うこと。
これらは親鸞が「信文類」で次のように述べたことが根拠となる。
「至心」といふは、「至」とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり。「心」とはすなはちこれ種なり、実なり。
(中略)
「至心」は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.230より)
疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.231より)
次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.234-235より)
親鸞は『尊号真像銘文』ではこう述べている。
「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、
(中略)
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。
(中略)
「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて、安楽浄土に生れんとおもへとなり。(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.643-644より)
また、「信文類」において善導大師(真宗七高僧第五祖)の文を引用している。
また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.221より)
一心
「一心」とは『浄土論』の直接の意味では「二心無きこと」(無二心)という意であるが、この場合は三つの心に対する一つの心ということである。その一心とは信楽である。
義相(本論)
三一問答の概要
三一問答には2つの問答がある。
Q1.(第一問答)
本願には至心・信楽・欲生の三心が誓われているのに、なぜ天親菩薩はこれを一心といわれたのか。
A1.
この三心は一心におさまるものである。このことを愚鈍な私たちに容易く理解させるためにわざわざそういわれた。
親鸞はこう述べた後、三心のそれぞれについてその漢字の意味から内容を解釈していく。これを字訓釈(仏教知識「字訓釈」)という。ここでは至心・信楽・欲生それぞれについて疑蓋無雑であると述べている。
「至心」は(中略)ゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.230より)
「信楽」は(中略)ゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.230より)
「欲生」は(中略)ゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.230より)
そして疑蓋無雑であるから、つまり疑う心が混じらないから信楽という名前がついたと述べている。三心とはそのまま信楽一心なのである。
まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.231より)
Q2.(第二問答)
それでは逆にどうして阿弥陀仏は本願に一心ではなく三心を誓われたのか。阿弥陀仏の本願もまた愚鈍な私たちに向けられたものではないのか。
A2.
仏のおこころははかり知ることができない。しかしながら、私なりにこのおこころを推しはかってみると……。
親鸞はこのように答え、三心のそれぞれについてその法義(※4)から意味を自分なりに解釈していく。これを法義釈という。法義釈は「至心釈」「信楽釈」「欲生釈」、それから三一問答の結論としての「結釈」とそれを承けて他力の信心を讃嘆する「大信嘆徳」から成る。ここでは至心・信楽・欲生の三心はいずれも衆生には存在しなかったものであり、それを憐れんだ如来が衆生に代わって完成してくださり、そして完成されたそれを衆生に与えてくださったものであると述べられる。そして、この三心は衆生の上では疑いなくそのまま受け入れる信楽の一心となることが述べられる。このことをそれぞれ「機無」「円成」「回施」「成一」という。
言い換えると、往生成仏は衆生のところに成立する信楽一心で定まるものではあるが、そこには如来が成就された至心・信楽・欲生の徳が含まれているのである。
- ※4 法義
- 法とは教え、義とは道理(法則)の意。仏法(仏教)のことわり(道理)をいう。
2つの問答
第一問答では天親菩薩が三心を一心と表現した理由を問い、第二問答では阿弥陀仏が一心を三心と表現した理由を問うている。どちらも三心と一心の関係に関する問答である。また『浄土文類聚鈔』では一つの問答の中に字訓釈と法義釈が論じられている。このことから、三一問答は本来は一つの問答であったものを詳しく開いて二つの問答にしたものと考えられる。
三一問答については詳しくは仏教知識「三一問答 (1)」「三一問答 (2)」「三一問答 (3)」「三一問答 (4)」「三一問答 (5)」を参照のこと。
続く後編では義相の続きと結びを解説する。
参考文献
[2] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2002年)
[3] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[4] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)