智慧(智慧波羅蜜)
六波羅蜜のひとつ。梵語プラジュニャーの漢訳。音訳では般若となり、般若波羅蜜とも言われる。仏道修行の基本とされる「戒(持戒)・定(禅定)・慧(智慧)」の三学のひとつでもある。生起する事象のすべてをあるがままにみること。また、その事象の背後にある道理を見きわめること。六波羅蜜において、智慧波羅蜜以外の五つの徳目は、この「智慧」を得るための修行の方法である。また、この智慧を得ることを「正覚」、智慧を得た結果を「証果」という。
中国や日本の仏教では、「智慧」を「智」と「慧」の二つの語句に分けて解釈する方法が取られた。すなわち、梵語ジャニャーナに「智」の字をあて差別・相対の世俗諦を知りわけることとし、梵語プラジュニャーに「慧」の字をあて、一切の事物が平等であるという第一義諦(真諦)をさとるものとした。
釈尊における智慧
釈尊のさとった智慧とは、私たちが生きるうえで生起されるさまざまな苦しみを滅していく四諦八正道の教えである。この教えは梵天の勧請によって、鹿野苑における初めての説法で語られたとされている。釈尊は、すべての苦しみにあえぐ人たちをすくおうと願い、インド各地でこの教えをさまざまな表現を用いて説いてまわった。そして、その生涯の最後に「入滅」という形で、煩悩が完全に消えさり輪廻から解放された状態である「涅槃」を、その証果として示した。【仏教知識「釈尊」・仏教知識「四諦八正道」を参照】
阿弥陀如来(法蔵菩薩)における智慧
法蔵菩薩の得た智慧とは、すべての苦しみにあえぐ人たちのいのちを「仏」と成らしめるという四十八願の発願と、それを成就して阿弥陀如来という仏に成ったということに示されている。証果は「南無阿弥陀仏」という名号が、いまもこの私たちに念仏として届いていることである。【仏教知識「法蔵菩薩」・仏教知識「阿弥陀如来」・仏教知識「仏説無量寿経」・仏教知識「四十八願」を参照】
親鸞における智慧
親鸞は「智慧」を、自ずからの力で修得するものではなく、徹底的に「阿弥陀如来からいただくもの」と考えた。阿弥陀如来の智慧は証果である名号・念仏として私たちのもとに届いているのだから、私たちはそれをただ疑いなくいただくことによって、「仏となることが約束された身」(正定聚※)になるとした。また、『浄土和讃』の中では
無明の闇を破するゆえ 智慧光仏となづけたり
一切諸仏・三乗衆 ともに嘆誉したまへり
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.558 より)
と記し、阿弥陀如来を「智慧光仏」(智慧の光となって私たちの無明を照らし出す仏)と仰いだ。そして、阿弥陀如来への信心を得たならば、如来の智慧を得ることが約束された菩薩と等しい(等正覚※)とし、また『正信念仏偈』においては「不断煩悩得涅槃」と記し、煩悩を断つことなく証果である「涅槃」を得ることができると説いている。
※ 正定聚・等正覚
親鸞は『親鸞聖人御消息』第十一通の中で
「信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに等正覚の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。」
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.758 より)
と記し、等正覚と正定聚は同じ意味であるとしている。
また、その上で
「浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。」
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.758 より)
と記し、阿弥陀如来への信心を得た者は、「あさましき不浄造悪の身」のままでも心は如来と等しいと説いている。
なお『智慧の潮 親鸞の智慧・主体性・社会性』より以下の三本の論文を参照した。
- 『仏道としての浄土真宗―「信心の智慧」の意味』(藤能成)
- 『釈尊の証から親鸞の真実証へ―愚の自覚を生む智慧』(小川一乗)
- 『親鸞における智慧』(前田壽雄)
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2009年)
[3] 『智慧の潮 親鸞の智慧・主体性・社会性』(ケネス・タナカ編 武蔵野大学出版会 2017年)