布施(布施波羅蜜)
六波羅蜜のひとつ。梵語ダーナ(dāna)の漢訳。音訳では「檀那」「檀」となり、「檀那波羅蜜」ともいう。自分の持つものを他に与えること、施しの意味。人々を仏道に導く四種の方法「四摂法(四摂事)」のひとつでもある。
初期の仏教教団では、食料や衣服などの財物の私的な所有や貯蓄は厳しく禁じられており、それらは一日のうち、午前中に一度行われる托鉢でまかなわれていた。そのさい、食料とともに不要となった布などが施されることがあり、それが「布施」の語源となったとも言われている。一度施されたものは、例えそれがどんなものであっても感謝を持って受け取らねばならず、さまざまな布をパッチワークのように組み合わせて、出家者の衣服としていた(糞掃衣)。それが、現在も布の小片を組み合わせて造られる僧侶の袈裟のはじまりであった。
龍樹は『大智度論』において、布施を「財施」「法施」「無畏施」の三施の行として規定した。また、『雑宝蔵経』には、人に施すものを持たない者に対して、「眼施」「和顔悦色施」「言辞施」「身施」「心施」「床座施」「坊舎施」の七施(無財の七施)が説かれている(『「仏教の真髄」を語る』P.115-118 より抜粋)。また、釈尊の前生譚である『ジャータカ』にも「修行僧のくべた焚火に自ずからの身を投ずるウサギ」の話など、いくつもの布施行に関する説話がある。
財施
自分の所有する金銭や衣服や食料などの財産を人に施すこと。現在では、寺院や僧侶に対して、読経や法話への謝礼として施されることが多い。しかし、本来は何らかの行為に対する「対価」ではなく、自ずからの意思によって「喜捨」する(喜んで捨てる)行であり、施したもの(金銭や物品)に対しての「執着を離れる」という宗教行為である。また、初期仏教経典である『ダンマパダ』では、托鉢(乞食)の際に「たとい得たものが少なくとも、比丘が得たものを軽蔑しないのなら、怠ることなく清浄に生きる彼を神々も称賛する」(『沙門ブッダの成立 原始仏教とジャイナ教の間』P.81)と、財施を施される側もその施しの多寡に惑わされることのないように説かれている。
法施
仏法を衆生に説くこと。先に財施で書いた通り、この法施も対価を求める行ではない。つまり、財施の対価として法施があるのではないし、法施の対価として財施があるのではない。釈尊は『スッタニパータ』において、説法の代償として差し出された乳粥を拒否しており(『ブッダのことば スッタニパータ - ワイド版』P.25)、対価としての財施を明確に否定している。
無畏施
「無畏」とは「畏れが無い」という意味。その人の心から「おそれ」がなくなるように接すること。『大無量寿経』には阿弥陀仏の誓いとして「一切恐懼 為作大安」(すべてのおそれおののくものを、大きな安心のなかにすくいとる)という言葉が出てくるが、これは無畏施の代表的な例であろう。
無財の七施
人に施す財力も、人に施す智慧もない者に対して、釈尊が『雑宝蔵経』に説いた七つの布施行。
- 「眼施」 … やさしいまなざしで人と接すること
- 「和顔施」 … なごやかな顔つきで人と接すること
- 「愛語施」 … やさしい言葉で人と接すること。
- 「身施」 … 自分の体を使い人のためにはたらくこと。
- 「心施」 … 自分の心を人の感情に寄り添わすこと。
- 「牀座施」 … 自分の席を人に譲ること。
- 「房舎施」 … 自分の家を人のために提供すること。
三輪清浄
布施行は、「施す人」「施される人」「施す物」の三つすべてが「清浄」(清らかでにごりのない様子)でなければならないとされる。これを「三輪清浄」という。「施す人」は布施という行為に何の見返りも求めてはならないし、「施される人」も「施された物」に対してどんな不満も述べてはいけないということである。また、「施す物」自体も、不正に取得されたものではいけないとされている。
参考文献
[2] 『ブッダのことば―スッタニパータ(ワイド版)』(中村元 岩波書店 1991年)
[3] 『「仏教の真髄」を語る』(中村元 麗澤大学出版会 2001年)
[4] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2014年)
[5] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2009年)