お布施は「お気持ち」?

【おふせはおきもち】

先日、ある新聞社から電話がかかってまいりました。ふだん、お寺にかかってくる取材依頼の電話は、「取材をして紙面に掲載しますので、取材協力金として~円をお支払いください。」という、いわゆるセールスの電話が大半ですので、今回もそういう話かと、いささか身構えて相手のお話をおきしました。

すると、その方がおっしゃるのには「お盆の特集を組もうとしているのだが、僧侶のホンネをお聴きしたい。できれば、実名で掲載させてもらえないか?」というお話でした。「どのようなホンネを聞きたいのでしょうか?」と、こちらからおたずねしてみると、「お盆参りのお布施ふせ相場そうばを知りたい。」とのことでした。なるほど、この人の頭の中では「僧侶のホンネ」=「お布施の相場」となっているのか、と興味をもって続きを聴いてみました。

私が「お布施に相場などはありません。ほどこしのお気持ちでけっこうです。」と応えますと、「その『お気持ち』がわからないので、読者は困っておられます。ここはホンネでお聞かせいただきたい。」と食い下がってこられます。そこで、私は次のようにお話をさせていただきました。

「お布施」とは本来、見返りを求めずに施す「ぎょう」のひとつです。それに僧侶の私が、「値段」をつけてしまうと、それはもはや「行」ではなくなり、読経どきょうや法要の見返りとしての「対価」となってしまいます。対価としてのお布施を認めてしまうと、そこに必ず「お布施が多いから。少ないから。」という気持ちがめばえてきます。そうなると、次はお布施に順序をつけていきます。お布施に順序をつけるということは法要やお布施をしてくださる門徒さんに順序をつけるということになります。それでは、僧侶や寺院は単なるサービス業となってしまいます。ですから、施しを受ける側の私たちは、「お気持ちでけっこうです。」と言うしかないのです。

たしかに、読者の皆さんが「相場がわからない」と困っておられるのは、よくわかります。しかし、よくよく考えてみますと、その相場をつくり上げてきたのは、「お布施」を対価や料金とみなしたうえに、その「お布施」に多い、少ないなどと文句を言って順序をつけ続けてきた私たち僧侶なのです。その点を反省し、「お布施」を本来の「布施ふせぎょう」に戻していく責任が私たちには求められているのだと思います。

以上のようなことを掲載していただけるのであれば、実名でもけっこうですよ、と最後につけ加えて、話を終えさせていただきました。すると、相手の方は「取材に協力するお気持ちはないということですね。他をあたります。」と、一方的に電話を切ってしまわれました。私としては、かなり丁寧に取材に協力をしたつもりでしたが、どうやら真意は伝わらなかったようです。「ふむ、これも布施行のひとつなのか・・・」とつぶやきながら、静かに電話を切らせていただきました。

関連記事

布施(布施波羅蜜)
六波羅蜜(ろくはらみつ)のひとつ。梵語(ぼんご)ダーナ(dāna)の漢訳。音訳では「檀那(だんな)」「檀(だん)」となり、「檀那波羅蜜」ともいう。自分の持つもの......