戦国本願寺外伝 第五章 改革が蓮如教学へ
「木像よりも絵像、絵像よりも名号」と提唱し、ご本尊を制定した本願寺第八代蓮如は四十三歳で本願寺を継職したのち様々な教団改革を行った。蓮如は宗祖親鸞の教えを幼い頃から学び、人々に浄土真宗の教えをわかりやすく説いた。
そして、南無阿弥陀仏を真宗七高僧第五祖善導と親鸞の六字釈(※)から展開し、「機法一体(※)」をあらわし、浄土真宗の本質である他力回向(※)の信心によって、私たち衆生が救われるすがたをあきらかにした。
また、親鸞から本願寺第三代覚如(※)へ受け継がれた「信心正因(※)・称名報恩(※)」も独自に展開し、『教行信証(※)』を徹底的に「信心」と「念仏」の関係で捉えることによって、人びとにわかりやすく伝わるように努めた。(※それぞれ仏教知識「六字釈 (1) ―善導大師の六字釈―」「六字釈 (2) ―親鸞聖人の六字釈―」、「機法一体」「他力」「覚如①」「覚如②」「信心正因」「称名報恩」「顕浄土真実教行証文類」を参照のこと)
現代の本願寺は御影堂と阿弥陀堂を堂々と構えているが、蓮如以前の本願寺は風前の灯火であった。延暦寺の末寺として儀礼などの面においては天台宗風となることにより、辛うじて保っている状態であった。それは浄土真宗の教義と相違する点があった。本尊を名号に制定したことも浄土真宗の独立を試みたことからであった。また、本堂の堂内は上下二段に区切られて上段で法座を展開する僧が下段で居眠りをする門徒に対して30センチほどの竹を投げて起こすという荒いことを行っていた。法座をする者、聴聞する者、分け隔て無く平等に伝道することを行うために上下段に区切る形を廃止した。蓮如の死後編者不明であるが、門弟たちが蓮如の言動を著した『蓮如上人御一代記聞書』という書物がある。その中に
一、仰せに、身をすてておのおのと同座するをば、聖人(親鸞)の仰せにも、四海の信心の人はみな兄弟と仰せられたれば、われもその御ことばのごとくなり。また同座をもしてあらば、不審なることをも問へかし、信をよくとれかしとねがふばかりなりと仰せられ候ふなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.1245より)
「身分や地位の違いを問わず、このようにみなさんと同座するのは、親鸞聖人も、すべての世界の人はみな兄弟であると仰せになっているので、わたしもそのお言葉の通りにするのである。また、このように膝を交えて座っているからには、遠慮なく疑問に思うことを尋ねてほしい、しっかりと信心を得てほしいと願うばかりである」と、蓮如上人は仰せになりました。
(『浄土真宗聖典 蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』P.33より)
とある。
身を捨てるということは、身分や地位への執着を捨てることである。それは差別する心や人を見下すといった自分勝手な思いを捨て、親鸞の教えを皆平等に学ぼうという姿勢を表すために、法を説く者もそれを聴聞する者も、皆同じ位置で学ぼうとする姿勢であった。そして集まった皆で親鸞の教えを聞いてあじわい、分け隔て無くことばで語り合うことが大事であると蓮如は考えた。それは『蓮如上人御一代記聞書』に、
一、蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信・不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.1259より)
蓮如上人は、「仏法について語りあう場では、すすんでものをいいなさい。黙りこんで一言もいわないものは何を考えているかわからず恐ろしい。信心を得たものも得ていないものも、ともかくものをいいなさい。そうすれば、心の奥で思っていることもよくわかるし、また、間違って受けとめたことも人に直してもらえる。だから、すすんでものをいいなさい」と仰せになりました。
(『浄土真宗聖典 蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』P.61より)
このような思い切った改革は本願寺としては、親鸞の教えを広く伝えることにも繋がりプラス材料になったが、一方で比叡山延暦寺や高田専修寺(現在の真宗高田派)から批判を浴びることになり、本願寺が破壊されることに繋がるのであった。