戦国本願寺外伝 第六章 近江の有力門弟たち
本願寺第八代蓮如が継職をした頃は琵琶湖地域の堅田・金森・赤野井といった地域に有力な門弟がいた。琵琶湖の湖西に位置する堅田に法住という者がいた。蓮如とその父である本願寺第七代存如が法住の道場へ立ち寄ったことが縁となり、法住は本願寺教団に帰依(※1)したとされる。法住の祖父である善道も本願寺第三代覚如の門弟より教化されたと伝えられる。この善道は紺屋(藍染め)を営んでいた。この時代は人々が自由に宗教を信仰できたという訳ではない。身分によって信仰に限りがあった。法住は本願寺との出会いによって南無阿弥陀仏を称えて救われる教えに帰依した。堅田の新興商工業者(鍛冶屋・油屋・麹屋など)をまとめ法住が中心となって堅田門徒を形成した。後の「寛正の法難」の時に蓮如を助ける役割を担う。また蓮如は宗祖親鸞の御影を制定することにした。御影とは影像のことであり、祖師や先徳(徳のある先輩)の肖像のことである。ちょうどこの頃は親鸞の二百回忌法要を迎えようとする時期であった。これまでの御影は初代である親鸞、本願寺第二代如信、本願寺第三代覚如、本願寺第四代…と先師を一同に書き表したが、蓮如は親鸞と自分だけの御影を作成した。右上に礼盤に座る親鸞と左下に畳に座る蓮如の一幅を連座御影という。この連座御影は蓮如の晩年に現在の親鸞単独の御影へと発展する。1461年(寛正2)連座御影の最初の一幅は法住へ与えられている。
金森は堅田から琵琶湖の対岸にある現在の守山市の地域である。ここにいた善従(従善、道西とも)は本願寺第七代存如のころから関係を持っていた。この地域の門徒を金森衆と称した。本願寺より、1453年(享徳2)『三帖和讃』『往生要集述書』が授与され、無碍光本尊、連座御影なども与えられている。他にも1458年(長禄2年)(長禄4年説もある)『正信偈大意』を善従の為に著した。この大意は親鸞が著した『正信念仏偈』をわかりやすく解釈したものである。釈尊の『仏説無量寿経』を説いた前段を依釈段(依釈分)とし、七高僧の教えを説いた後段は依経段(依経分)とした。この分け方は今日でも使われている(仏教知識「正信念仏偈」参照)。1461年(寛正2)には最初の『御文章』を作成し授与した。これを「御文始めの御文」という。これらから継職した蓮如がこの地域をいかに頼っていたかということがよく分かる。善従は後に完成する山科本願寺の場所を勧めたとされる。また、善従の甥の子供に才覚を見抜き蓮如は大谷に連れて帰った。この子供は後に慶聞坊龍玄となり、蓮如の教えを蓮如の息子たちに教え説き、蓮如の葬儀には導師を勤めた。
赤野井という場所は金森から2-3キロほどの近い距離にあり、湖岸に近い場所である。ここは現在も赤野井別院という本願寺の別院がある。覚如の長男である存覚が創建したとされ、存覚の旧跡として蓮如が堂舎を整備した。金森と近いこともあり、この地でも多くの門徒が生活をしていた。
このように、蓮如は近江の門徒を布教することで門徒たちに支えられ、親鸞の教えというものを人々にわかりやすく説きすすめた。風前の灯火であった本願寺を建て直すために最も尽力したのが、この地域の人々であった。
- ※1 帰依
- よりどころとすること。信じて順うこと。
