機法一体
本願寺第八代蓮如が作成した『御文章』(仏教知識『御文章』参照)に「機法一体」という語句が随所に使われている。『御文章』は寺院の勤行や門信徒の自宅で行う法事などの最後に必ず拝読する。また、本願寺晨朝勤行の最後には本願寺知堂職(※1)などが必ず拝読する。晨朝勤行に依用される『御文章』は1日から31日まで拝読する章が定められ、「機法一体」に関するものとして毎月14日に「機法一体章」、毎月17日に「一流安心章」などが拝読されている。なお「機法一体」は様々な使い方があるが、ここでは蓮如が用いた「機法一体」を展開していく。
まずは、「一流安心章」(四帖目第一四通)と「機法一体章」(四帖目第一一通)を見ると、
一流安心章の大意
浄土真宗の安心というのは南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞き開くことです。
善導大師はこの六字を「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故 必得往生」と釈されています。「南無」とは帰命ということであり、帰命とは、衆生が阿弥陀如来におたすけくださいとおまかせすることです。また発願回向とは、おまかせした衆生を如来がおさめとってお救いになることです。これはそのまま「阿弥陀仏」の四字の意味でもあります。
そこで私たちのような愚かなものは、どういう心をもち、また阿弥陀如来をどのようにたのみたてまつればよいのかというと、自力にたよることをやめ、後生をおたすけくださいと二心なく阿弥陀如来におまかせするのです。そうすれば、浄土に往生することは疑いありません。
このように、「南無」の二字は、衆生が阿弥陀如来をたのむという機をあらわしており、「阿弥陀仏」の四字は、たのむ衆生をおたすけくださる法をあらわしているから、機法一体の南無阿弥陀仏というのです。このようないわれがあるので、私たちの往生は南無阿弥陀仏の六字にあらわし尽くされているのです。
(『御文章 ひらがな版 -拝読のために-』P.132-133より)
機法一体章の大意
南無阿弥陀仏とはどういう意味なのか、またどのように阿弥陀如来を信じるならば浄土に往生することができるのか、それを心得るためには、まず南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく心得なければなりません。
南無阿弥陀仏とは、たすけると仰せになるみ仏に、おたすけくださいとおまかせする信心であります。そのようにおまかせする衆生を、阿弥陀如来はよくお知りになって、この上ない功徳を与えてくださいます。このことを「衆生に回向してくださる」というのです。
そこで、阿弥陀如来におまかせする信心(機)の衆生を、如来がお助けくださる(法)ので、これを機法一体の南無阿弥陀仏というのです。これが私たちの往生が定まる他力の信心であると心得るべきです。
(『御文章 ひらがな版 -拝読のために-』P.112-113より)
ここで機法一体とは、私たちの信心、すなわち阿弥陀如来のはたらきによっておこる信心のすがたが機に当てはまり、阿弥陀如来による私たちを救う力になるはたらきが法であり、これらは別々ではなく一つのものであると示している。蓮如は真宗七高僧第五祖善導大師の六字釈(仏教知識「六字釈 (1) ―善導大師の六字釈―」参照)を承け、さらに南無阿弥陀仏を独自に展開していく。蓮如は南無阿弥陀仏を南無と阿弥陀仏の二字・四字に分けた形と六字全体に通じる形の二つの解釈をとった。二字・四字の南無阿弥陀仏の解釈は上記の「一流安心章の大意」の通り、南無の二字を衆生の信心(機)、阿弥陀仏は如来の救いの力・はたらき(法)とした。南無阿弥陀仏の六字全体に通じる解釈は衆生の信心(機)と阿弥陀如来の救いの力・はたらき(法)も六字全体そのままあらわす解釈である。六字全体が機であるとの解釈は宗祖親鸞の『顕浄土真実教行証文類』「信文類」で本願の三心(仏教知識「三一問答 (2)」参照)の「至心釈」において
この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』 P.231 より)
至心の体が名号であり、信心の本質は名号である (仏教知識「信心正因」、「本願成就文」参照)と示されていることを承けている。これは衆生を必ず救うという南無阿弥陀仏の本願を疑いなくいただいたことによって、如来の真実(至心)も疑いなく届いているという意味である。
六字皆機
蓮如は「一切の聖教章」(五帖目第九通)では、
当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。(中略)されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』 P.1195-1196 より)
浄土真宗の信心というのは、南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞き開くことです。(中略)そこで、他力の信心を得るということも、南無阿弥陀仏の六字のいわれを心得るということであり、一切の聖教もただ南無阿弥陀仏の六字を信じさせるためのものであると思うべきです。
(『御文章 ひらがな版 -拝読のために-』P.176-177より)
つまり、疑いなく本願をいただいて信心が完成されているがゆえに、六字全てが機であるとした(六字皆機)。
六字皆法
また、六字全体を法であるとの解釈は、親鸞の「行文類」の六字釈(仏教知識「六字釈 (2) ―親鸞聖人の六字釈―」参照)において六字全体が阿弥陀如来の智慧と慈悲とを円かに具えた救いの力・はたらき(法)であることが示されていることを承けている。
蓮如は「五劫思惟章」(五帖目第八通)では、
それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』 P.1194-1195より)
【現代語訳】
さて、五劫の間ご思案なされた本願というのも、はかりしれない永きのご修行というのも、ただわれわれ一切の衆生を何としてでもたすけようと思われてのものであります。そのためのお手だてとして、阿弥陀如来は御苦労くださり、南無阿弥陀仏のいわれを誓われた第十八願をお立てになられたのです。すなわち、迷いの衆生が一念にわれをたのみとし、さまざまな雑行を捨て、一向一心にわれに帰依するならば、そのような衆生をたすけよう、もしたすけないということがあれば、わたくしも覚りを得まいとお誓いになられて、南無阿弥陀仏となられたのです。これがとりもなおさず、わたくしたちがたやすく極楽に往生することのできるいわれであると知らなければなりません。したがって、南無阿弥陀仏の六字の意味合いは、すべての衆生が報土に往生することを表された、そのすがたなのです。(『現代の聖典 蓮如五帖御文』P.266-267より)
つまり、完成された信心よって必ず極楽に往生できるすがたであるがゆえに、六字全てが法であるとした(六字皆法)。
機とは元来、法を被る者という意味である。これは衆生(※2)のことをあらわす。しかし、信心は阿弥陀如来のはたらきによって衆生の上におこるものであるから、これを機とするのである。つまり、名号が衆生の心に行き届いたから信心といえる。機法一体は名号が私たちの上ではたらき、私たちの信心となり極楽に往生するすがたを、衆生と阿弥陀如来の両面から明らかにすることである。
- ※1 本願寺知堂職
- 本願寺御影堂や阿弥陀堂において法要や勤行、奏楽などを執り行う本願寺職員をいう。
- ※2 衆生
- 生きとし生けるもの。
参考文献
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2000年)
[4] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[5] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2013年)
[6] 『真宗の教義と安心』(勧学寮 本願寺出版社 1998年)
[7] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2020年)
[8] 『御文章 ひらがな版 -拝読のために-』(浄土真宗教学研究所(現 教学伝道研究センター) 本願寺出版社 1999年)
[9] 『現代の聖典 蓮如五帖御文』(細川行信 村上宗博 足立幸子 法蔵館 1993年)