蓮如
蓮如(1415~1499)浄土真宗の僧侶。本願寺中興の祖。
誕生
蓮如は、1415年(応永22)に後の本願寺第7代、存如の長男として生まれた。 幼名は布袋丸、諱は兼寿である。 母は蓮如が6歳の時に蓮如を残して本願寺を出たとされているが、その詳細については不明である。 1431年(永享3)に天台宗の青蓮院で得度を受け、その後近江・北陸において浄土真宗の伝道に励んだ。
本願寺継職
1457年(長禄1)に父存如が没すると、本願寺の後継者問題が起きる。 本願寺関係者は、正妻の子である応玄を後継者とすることでほぼ一致していた。 しかし、存如の弟で加賀国の本泉寺の如乗が反対し、蓮如が後継者に如何に相応しいかを訴えた。 蓮如は、この如乗の後押しと、有力門徒の賛同のもとに本願寺第8代に就いた。
1461年(寛正2)、親鸞の教えをわかりやすい言葉を使って和文の手紙の形にした『御文章』をつくり、 これを当時の有力門徒であった金森の道西に与えた(御文始めの御文)。 その後数多くの『御文章』をつくり、吉崎に坊舎を建てたころから、これまでの聖教の授与にかえて『御文章』を配布するようになった。 1465年(寛正6)、延暦寺衆徒は、蓮如が天台宗と距離をあけていく中、本願寺教団を拡大していくことに不満を持ち、 大谷本願寺に壊滅的な破壊を与えた(寛正の法難)。
吉崎時代
1471年(文明3)、蓮如は延暦寺衆徒から逃れるように各地を転々とし、越前国吉崎に坊舎を建てた。 1473年(文明5)『正信偈和讃』4帖を開版し、本願寺の朝夕の勤行に制定した。 このころから本願寺門徒は飛躍的に増加し、地域においても一定の力を有することとなる。 これまでの体制に不満を持つ門徒が力を持つことにより、領主の意向に無視や否定をする門徒たちも出てくるようになった。 その結果、領主からの弾圧、門徒の領主への一揆という悪循環に陥っていく。
蓮如は門徒に対して、一揆そのものを当初、否定はしなかった。 一方で守護地頭を疎かにしてはならないとの掟を再三出すものの、 その内実は仏法を尊重擁護するものが守護地頭の本来の姿であり、 吉崎に不当な圧力を加える者は、もはや守護地頭ではなく仏敵の「一武士」に過ぎないというものであった。
1473年(文明6)、加賀国の守護職をめぐる富樫幸千代と富樫政親の戦いに北陸の門徒たちが一揆を起こして参加する。 政親側に加勢した門徒たちは勝利し、幸千代をはじめ幸千代方の侍はことごとく加賀国を逃れたという。 しかし、この戦いで門徒側の死者は2000人を超えたともいわれている。 翌年、これまで協力関係にあった富樫正親への一揆を起こすが敗れると、蓮如は一転して一揆そのものを認めない掟を出し始めた。 しかしこの頃には、吉崎の門徒の統制もとれなくなってきたと思われる。 このような混乱の中、蓮如は吉崎を退去した。 15年後、富樫政親は門徒たちの一揆に敗れ自害し、加賀国は実質的に本願寺が支配することになった。
晩年とその業績
その後、摂津国・河内国・大和国で伝道し、1480年(文明12)京都山科に御影堂を完成させ本願寺を再興した。 晩年は、1485年(明応5)、大坂に後の石山本願寺になる大坂坊舎を建立し、1489年(延徳元)に五男実如に本願寺を譲った。 1499年(明応8)に85歳で没した。著書に『正信偈大意』等がある。
蓮如は部屋住みの不遇の時代に、様々な聖教を学ぶとともに、同じ浄土真宗の中で繁栄をしている他教団を徹底的に研究した。 本願寺を継いだ後、研究の成果でもある他教団への対策を行いながら精力的に各地に布教に赴き、様々な新しい方法により伝道し、 一方で、増大した門徒を疎かにすることはなく、門徒に対して常に細心の心遣いをみせた。 当時没落していた本願寺教団を再興できたのはそれらの結果といえる。 蓮如の側近であった空善が記した蓮如の言行録『空善聞書』には、 「仰に、おれは門徒にもたれたりと。ひとへに門徒にやしなはるゝなり。・・・(門徒にもたれ、養われる我が身であると仰った)」(第94条)と記されている。
参考文献
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『不滅の人・蓮如』(笠原一男 世界聖典刊行協会 1993年)
[5] 『親鸞と本願寺一族―父と子の葛藤』(今井雅晴 雄山閣出版 1999年)
[6] 『戦国期宗教思想史と蓮如』(大桑 斉 法蔵館 2006年)