戦国本願寺外伝 第四章 本願寺第八代継職から改革へ
1449年(宝徳1)本願寺第八代蓮如が三十五歳の頃、諸国へ旅に出た。蓮如と父である本願寺第七代存如は北陸方面に向かった。北陸の地は宗祖親鸞が流罪の際に教化したこともあって門徒が多くいた。現在、真宗教団連合加盟の十派のうち四派の本山が福井県に存在する。ここは浄土真宗が盛んな地域であった。越前(現在の福井県)の次は加賀(現在の石川県)に入った親子であった。ここで存如は本願寺へ戻り別行動で蓮如は東国に参る。この頃の慣例として歴代宗主は必ず親鸞が関わった地方に赴いた。越前、越中(現在の富山県)、越後さらに関東から奥州国府(現在の仙台)まで旅をした。このような旅の結果、諸国門徒の力添えも加わり親鸞の御真影を安置する御影堂は五間四面(間口が約9mで四方に庇が付いている)、阿弥陀堂は三間四面(間口が約5.4m)の大きさで完成した。正確な日時は不明であるが存如が晩年の頃であった。
1457年(長禄1)六月、存如は亡くなった。この時、存如の葬儀を中心的に執り行った者は蓮如ではなく、異母弟にあたる応玄であった。応玄は継母の如円尼の長男であった。年齢は蓮如より十八歳年下で当時二十五歳であった。本願寺に関わる者たちも葬儀を仕切った応玄が継職するものだと考えていた。しかし存如の弟、つまり蓮如の叔父である如乗はただひとり、後継者は蓮如であると主張した。この如乗は加賀、越中、越前で寺院の建立に務めたり、人々をまとめる役割を担い、当時の本願寺の中でもかなり強い発言力を持つ者であった。このような縁によって蓮如が本願寺第八代として継職することになった。そもそも上記の通り存如は蓮如が東国参詣を行っていることを知っている訳なので、存如の中では蓮如を後継に考えていたのかもしれない。
こうして正式に宗主となった蓮如であった。この時、すでに四十三歳であった。現在の感覚であるならば一寺院の代表として相応な年頃かもしれない。父存如も四十一歳の時の継職で決して早い時期ではなかった。しかし狂乱の時代かつ衛生状況も現在とは比べものにならない世界であり、少なくとも寿命というものは今より少なかったであろう。しかし結果として蓮如は八十五歳まで生きるので蓮如の人生において宗主としての半生はここから始まるのであった。
まずは教団の改革であった。蓮如は本尊を制定することに着手した。この時代、師(善知識)を依りどころにする傾向が多々みられたが、そうではなく本尊を依りどころにして寺院が活性化することを目指した。本願寺第三代覚如が「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を本尊としたことにならいこれを制定した。蓮如が制定したこの名号の姿形は当時としては珍しく奇抜なものであった。紺色の絹布が下地になりその上に金泥の文字で書かれてある。蓮台の上に十字の文字が書かれて、文字から四十八の光明を放つものであった。本願寺に保管される親鸞自筆の名号は白地の下地に黒い筆で書かれたものであった。この親鸞の書写と比べると明るい印象で、浄土が輝いた世界を顕すものとなった。当時は無碍光本尊とよばれた。また、それまで使っていた木像の本尊は焼却した。本尊を焼却するとは普通では考えられない行動であったが、こういったことが民衆にもひろく受け入られ教団の教えがひろがっていくことに繋がった。この十年後には十字名号は減産され南無阿弥陀仏の六字名号を多く作成する。
蓮如は「木像よりも絵像、絵像よりも名号」といわれ、自ら名号のご本尊をたくさん書かれたが、それは偶像崇拝を廃し形にとらわれる事を避けるためであった。
(真宗の本棚「仏壇」より)
改革はまだスタートしたばかりで、この後も続いていく。