戦国本願寺外伝 第三章 勉学に励む青年期

【せんごくほんがんじがいでん 03 べんがくにはげむせいねんき】

得度をした若き頃の本願寺第八代蓮如れんにょは勉学に励んだ。この頃、奈良の興福寺こうふくじ大乗院だいじょういん門跡もんぜきであった経覚きょうかくに師事した。経覚は蓮如より二十一歳年上であり、経覚の父は関白の九条経教つねのりであった。経覚は南都仏教教団の中心人物であり、将軍たちと交流を持ち政治に大きく関わったとされる人物であった。

また経覚の母である正林尼しょうりんには本願寺から出ている(本願寺第五代綽如しゃくにょの娘という説もある)。この縁もあり経覚より倶舎くしゃ法相ほっそうを仏教学として学ぶ。また仏教に限らず様々な一般学問も同時に習った。この関係は経覚が亡くなる1473年(文明ぶんめい5)まで続いていく。

真宗学は父である本願寺第七代存如ぞんにょより学んだ。『けん浄土じょうど真実しんじつきょうぎょう証文類しょうもんるい』(『教行信証きょうぎょうしんしょう』)を軸に宗祖親鸞しんらんや本願寺第三代覚如かくにょの著述を書写したとされる。残念ながら著者不明で浄土宗西山せいざん系の書とされる『安心決定鈔あんじんけつじょうしょう』は三度ボロボロになるまで読破されたと伝えられている。また覚如の長男存覚ぞんかくが著した『教行信証』を註釈した『六要鈔ろくようしょう』も表紙が擦り切れるくらい読みに徹したと伝えられている。この『六要鈔』は浄土真宗の教判をあらわす「二双四重にそうしじゅう」や『教行信証』の「総序そうじょ」「別序べつじょ」「後序ごじょ」という題目が初めて使われた書である。蓮如は存覚のことを大勢至菩薩だいせいしぼさつの生まれ変わりであると仰いだと伝えられる。

存如は聖教しょうぎょうを書き写して門弟に教化きょうけして生計を立てた。蓮如も二十歳の頃からこれを手伝っていた。とにかくひたすら書写されたといわれている。のちの『御文章ごぶんしょう』を完成させ布教していく礎がここにあった。いつの時代でも勉学は書いて覚えるということは基本的なことであるものだと筆者も再認識させられた。この頃の本願寺は困窮こんきゅうを極め、食事は味噌を極限に薄め一杯のお椀を親子で分け合っていたといわれる。蓮如自身の衣体えたい(仏教知識「衣体」参照)も正絹しょうけんといった上等なものではなく布子ぬのこ紙子かみこであり、日が暮れて油を使うことが勿体なく月明かりで勉学に励まれたという言い伝えもある。そんな時代でも遠路えんろ遥々はるばる本願寺を参拝しにきた人たちに夏は冷酒、冬は熱燗を提供したという人情味あふれる逸話も残っている。

この時代、本願寺に限らず室町時代全体の社会が乱世と化していた。1438年(永享えいきょう10)から1441年(嘉吉かきつ1)蓮如が二十四歳から二十七歳の時に存覚が著した『浄土真要鈔じょうどしんようしょう』を二回書写した。この『浄土真要鈔』はどのような死に方であろうが、仏の救いを信じるものは死を迎えたその時に直ちに浄土に生まれることができると説かれていた。これはこの時代背景にマッチする考えであった。また先述のコラム「戦国本願寺外伝2」に記載した永享・嘉吉の乱もこの頃に起こった。嘉吉の乱が起こる一年前に本願寺第六代巧如ぎょうにょが亡くなった。巧如の晩年のころには存如が本願寺を支えていた。この頃の本願寺は一つの堂の中に親鸞の御真影ごしんねいと阿弥陀如来像を並べて安置していたが、存如は堂を二つに分けてそれぞれ安置するということを目指していた。しかし時代の情勢で永享の乱が勃発し、1438年(永享10)夏には都で数え切れない程の死者が出た疫病の発生で人材、資金も無く造営を着工することは不可能であった。

こうして諸国の門徒を頼りに蓮如親子は旅に出るのであった。

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