戦国本願寺外伝 第二章 室町時代初中期の情勢

【せんごくほんがんじがいでん02 むろまちじだいしょちゅうきのじょうせい】

今回は本コラムの主人公、本願寺第八代蓮如れんにょ (1415-1499) が関連する室町むろまち時代初中期の史実を中心に展開します。

 

室町幕府三代将軍足利義満あしかがよしみつ (1358-1408) の次代である四代将軍足利義持よしもちは幕府の力を蓄えつつ、二十八年の長期政権を続けた。このころ世間では大飢饉が発生し疫病が大流行した。田畑は荒れ果て、死体はあふれかえり衛生状況はきわめて悪い状態であった。生活苦からの一揆いっきも多発した。五代将軍足利義量よしかずは十七歳の時に将軍職に就いたが、十九歳で病死する。義持よしもち急遽きゅうきょ将軍代理に就くが三年後に亡くなり、六代将軍は足利義教よしのりが就く。この時の将軍の選出方法は石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう(現在の八幡市)にてくじ引きで行われた。義教は将軍の権威を高めるため有力守護(地方の軍事、内政をつかさどる職)達の発言権などを弱め、自身の権威を高めた。言うことを聞かない守護大名は殺し、足利の冠名かんめいがつく同門まで排除し(永享えいきょうの乱)、恐怖政治を加速させた。各地の守護大名は恐々とした。その後、播磨守護はりまのしゅご赤松満祐あかまつみつすけがクーデターを起こし、義教が殺される(嘉吉かきつの乱)。しかし赤松も三ヶ月後には幕府軍に追い詰められ自害する。

義教の子供である足利義勝よしかつが九歳で七代将軍に就いたが急死した。そして、義勝の弟であった足利義政よしまさが八代将軍に就いた。七代八代は義満の孫であった。義政は将軍であったが禅の思想に傾倒しており、わび・さびや芸術文化を愛した。一方、政治は山名や細川など有力守護たちや公家の日野が掌握していた。飢饉や一揆といった問題点は山積みであったが義政自身は特に動かなかった。やがて義政の正妻である日野富子ひのとみこが政治を行うようになり、政治に関心がなかった義政は弟の義視よしみに将軍職を譲るよう考えた。この義視は出家をしたが還俗げんぞくして将軍の準備をしていた矢先、富子は足利義尚よしひさを出産した。将軍になるため還俗した義視と自分の子を将軍に継がせたい富子の思いが交差し、義政に問い詰めるもはっきりしなかった。このことがきっかけで応仁おうにん文明ぶんめいの乱に発展する。京都の東西に陣を構え、東に足利義視、細川勝元かつもと。西に日野富子、山名宗全そうぜん。これに双方の有力守護大名が加わり1467年(応仁1)から約11年間争う。京都は戦場となり平安京から築き上げられてきた書物、建造物は灰と化した。戦乱の最中、同盟主が代わり、細川勝元、山名宗全は亡くなり、兵もそのうちに何を大義名分たいぎめいぶんに戦っているのか分からなくなった。1477年(文明9)になっても勝敗は決まらず、東西軍は解散して終わった。このことがきっかけで幕府の権威は下がり、諸国の大名がぐんぐんと力をつけることとなる。それは戦国時代の黎明れいめい期に突入することを意味する。終戦の四年前に義尚は九代将軍となり、義視は美濃みのに下った。その後、義政は出家して茶道さどう華道かどう連歌れんがなど今日の日本文化のいしずえとなる多くのものに携わった。枯山水かれさんすい書院造しょいんづくりなどもこの頃であり、義満のきらびやかな北山文化に比べて、わびさびがあり落ち着いた雰囲気である。これらは東山文化として後世へと受け継がれていく。

義政は1490年に亡くなり、蓮如は1499年に亡くなる。大雑把に時代の流れを記載したが無茶苦茶な時代であることに間違いはない。

さて蓮如が得度とくどをしたのは十七歳の時であった。1431年(永享えいきょう3)の夏の頃、日野一門の公家であった広橋兼郷ひろはしかねさと猶子ゆうし(この場合、財産の相続を目的としない親子関係)となりいみなを兼寿とした。そして青蓮院しょうれんいんにて得度を受け蓮如と名乗った。宗祖親鸞しんらんにならい、第四代以降の宗主しゅうしゅは青蓮院で得度を受けてきた。これは後の本願寺第十代証如しょうにょの時代まで続く。

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