戦国本願寺外伝 第一章 蓮如誕生
浄土真宗を開いた宗祖親鸞が生きた鎌倉時代が終わり、京都と奈良に二つの朝廷が存在した。その後、室町幕府が本格的に始動した。室町時代中期を生きた本願寺第八代蓮如は現在では本願寺中興の祖といわれている。ここでは、あらためて蓮如を中心にどのような時代の流れであったかを記載する。
その前に室町時代初期がどういう時代であったか少し見直してみる。
鎌倉幕府後期に実権を握る北条氏は倒幕を企てた後醍醐天皇と争っていた。幕府の権威で後醍醐天皇は廃位(位をなくすこと)され隠岐島(現在の島根県)に流される。その後島を脱出し、足利尊氏などの協力で1333年(元弘3)に鎌倉幕府を討つことに成功する。しかし、京都に帰った後醍醐天皇は摂政や関白は置かず、天皇が政治を行う建武の新政をあきらかにした。働いた武士に満足な恩賞は無く、同時に武士の弱体に繋がり不満が表面化した。尊氏は後醍醐天皇に反発し朝敵(朝廷の敵)となるが光厳上皇より院宣(上皇の命令文)が出た。この院宣で風向きが変わり、太平記で有名な後醍醐天皇に従っていた楠木正成が摂津湊川(現在の神戸市)で自害すると、後醍醐天皇は比叡山に逃げる。これで尊氏は新たな幕府を開く準備が整った。このころ比叡山に居た後醍醐天皇は尊氏の働きによって京都にいた。しかし後醍醐天皇は三種の神器を持って京都を脱出し、奈良吉野で朝廷を開いた。尊氏と光明天皇の北朝、後醍醐天皇の南朝。これが南北朝時代の始まりであった。1338年(建武5)八月尊氏は光明天皇により征夷大将軍に就き翌年、後醍醐天皇は亡くなった。その後南北は合体、分離といった不安定な状態を続ける。時が流れ1368年(貞治7)十一歳の足利義満が三代将軍に就く。義満は南朝と和解しようやく室町幕府が動き出す。将軍職を退き太政大臣に任命され翌年臨済宗の僧となった。日明貿易を積極的に行い、勘合を導入した。海賊問題(倭寇)にも力を入れ外国に対して日本の「王」という主張をした。この貿易の結果、経済や商人の発展につながり、寺社周辺に市場が誕生した。これはのちの寺内町(堀や塀で守りを固めた集落)に繋がり、北山文化といった芸術も発展した。京都を代表する観光寺院、金閣寺もこの時に誕生し北山文化の象徴である。しかし義満は絶頂の権力を発揮していたピークで急死する。第四代将軍は義持であったが、義持は政治を任されなかった恨みから義満を全否定した。これにより1411年(応永18)に明との貿易は廃止された。そして蓮如が1415年(応永22)に誕生した。
蓮如が幼少期の頃の本願寺は困窮していた。本願寺第三代覚如(仏教知識「覚如②」参照)の時代に足利尊氏と後醍醐天皇の覇権争いにより本願寺は焼失して再興した。覚如の死後、本願寺第四代善如、本願寺第五代綽如の時代に阿弥陀如来像を安置した。正確にはこれがいつ安置されたかはわからないが、この時に財政難の中で無理をして本願寺再建したことが影響し、蓮如が教団を拡大するまでは苦しい財政状況であった。この頃の本願寺は親鸞が得度した青蓮院の南にあった(現在の崇泰院のあたり)とされる。広さは三百坪ほどで参拝する者は少なく寂しい雰囲気の毎日であった。また、本願寺は存在したが当時は天台宗の末寺であった。
蓮如の父は本願寺第七代存如であり蓮如が生まれた頃は二十歳であった。祖父は本願寺第六代巧如である。母は本願寺に仕えた者であった。この母に関しては謎が多く現在も解明されていない。伝説では存如が如円尼を正妻として迎えると、蓮如の母はこの婚姻を見届けた後、六歳の蓮如の姿を絵師に描かせ、それと共に誰にも行き先を告げる事無く姿を消したとされている。後年、蓮如は母の噂を聞くと側近をその地に出向させたが生涯見つけ出すことはできなかった。また六歳の時にかいた絵師のところに四十年越しに訪ね、残っていた下絵をもとに同じものを作らせた。遠い記憶であったが、鹿子の紋の小袖を着たという記憶からこの肖像画は鹿子の御影と呼ばれた。こうした幼少期を経て得度へと進んでいく。
