出世本懐
出世本懐とは
釈尊がこの世に生まれてこられた本当の目的、本意のことを出世本懐という。出世の大事ともいう。ここでいう「出世」とは仏教用語で、仏や菩薩などが世に出現することをいう。
どれが出世本懐の経なのか?
仏教知識「経」にあるように、釈尊の死後多くの経典が成立した。また、仏教がインドから中国へと伝わりさまざまな宗派が成り立ってきた。各宗派はそれぞれいずれかの経典をよりどころとしている。さまざまな経典の中にその経典が出世本懐であることを示す文が出てきているが、宗派ごとにそれぞれの解釈があり天台宗では『妙法蓮華経』(『法華経』)、華厳宗では『華厳経』を出世本懐の経典としている。その根拠として「釈尊が生涯のどの時期にその教えを説かれたのか」ということが関係している。
浄土真宗における出世本懐の経典は『仏説無量寿経』(『無量寿経』)である。宗祖親鸞は教えが説かれた時期ではなく経の内容を根拠としてこれを示した。
過去には論争もあった。1338年(建武5)に存覚(本願寺第3代覚如の長男)は備後国(現在の広島県東部)で法華宗徒(日蓮宗徒)と教義に関する論争を行っている。この論争の内容は存覚が著した『法華問答』の中にまとめられており、この中には「法華と浄土教のどちらが釈尊の出世本懐であるか」が論じられたことが書かれている。
『無量寿経』は真実の教
親鸞は『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の「教文類」で次のように述べ、『無量寿経』こそが仏の本意を明かした真実の教えであることを示した。
それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。 (『浄土真宗聖典 註釈版 第二版』P.135より)
「真実の教」とは「仏の本意を明かされた究極の教え」ということである。真実の教は仏の本意に随って説かれたものなので「随自意の法門」といわれる。
『無量寿経』が出世本懐とされる根拠
(1) 発起序の文
『無量寿経』が出世本懐とされる根拠の一つは『無量寿経』発起序の文である。
如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。 世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。
(『浄土真宗聖典 註釈版 第二版』P.9より)
『教行信証』「教文類」にはこれを要約した文がある。
釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。
(『浄土真宗聖典 註釈版 第二版』P.135より)
ここでは道教は仏教の中でも自力で仏になる道を説く聖道門の教えのこと、光闡は法義を説き明かし広めること、群萌とは衆生(人々)のことをいっている。真実の利とは阿弥陀仏の本願のいわれを聞いて浄土に往生成仏すること、つまり『無量寿経』の教えのことをいっている。
このことから、この発起序の文は「釈尊がこの世に現れ、聖道門のさまざまな教えを説いて人々を導かれた。しかしその本意は人々に阿弥陀仏の本願のいわれを聞かせ、浄土に往生・成仏させるという真実の利益を恵むことにあった。そのためにこの経を説かれた。」といっている。
全ての如来の出世本懐
また親鸞はこの発起序の文の中で「釈迦」ではなく「如来」と書かれていることに着目し、釈尊のみならずすべての如来にとっての出世本懐がこの『無量寿経』であると考えた。親鸞は『一念多念文意』(『一念多念証文』)の中で、先に挙げた『無量寿経』の文を解説して次のように述べている。
この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。 (『浄土真宗聖典 註釈版 第二版』P.689より)
(現代語訳)
この文の意味は、「如来」というのは、諸仏のことをいうのである。 (『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』P.29より)
また親鸞は『教行信証』「行文類」の「正信念仏偈」でも次のように述べている。
如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。 (『浄土真宗聖典 註釈版 第二版』P.203より)
(現代語訳)
如来が世に出られるのは、ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである。 (『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.144より)
(2) 五徳瑞現の文
また『教行信証』「教文類」では『無量寿経』にある五徳瑞現の文が出世本懐の根拠であると述べられている。次の流れで書かれている。
- 「どのようなことからこの経が釈尊の出世本懐の経であるのかというと」と述べられる
- 五徳瑞現の文が『大無量寿経』『如来会』『平等覚経』より引用される
- 五徳瑞現の文の解説が『述文讃』より引用される
- 「ここまで挙げてきた経文は、『無量寿経』が真実の教であることを示す明らかな証文である」と述べられる
五徳瑞現については仏教知識「五徳瑞現」参照のこと。なお『如来会』『平等覚経』は『無量寿経』(『大無量寿経』)の異訳である(仏教知識「無量寿経(仏説無量寿経)」参照)。
(3) 流通分の文
やがて将来、わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。 (『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』P.148-149より)
釈尊は『無量寿経』の流通分でこう言われている。これもまたこの経が出世本懐であることの根拠となっている。
釈尊と阿弥陀仏の関係性
釈尊が阿弥陀仏の願に応じて説いた
『無量寿経』を説かれたのは釈尊であるが、『無量寿経』の中に出てくる第十七願文には
(一七)わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。 (『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』P.29より)
とある。ここでは法蔵菩薩(阿弥陀仏の因位のすがた)が「すべての世界の数限りない仏がた」(十方の諸仏)に阿弥陀仏の名号を讃嘆させ、人々に阿弥陀仏の救いを聞かせようと誓われている。釈尊はこの仏がたの一仏としてこの世界に出現され、この第十七願の力に促されて『無量寿経』を説かれたと考えることができる。第十七願については仏教知識「四十八願」も参考のこと。
阿弥陀仏が釈尊として現れ、説いた
親鸞は、阿弥陀仏がこの世にすがたを現した存在が釈尊であるという見方をした。『浄土和讃』の「諸経讃」に次のようにいわれる。
(八八)
久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する(現代語訳)
はかり知ることのできない遠い昔からすでに仏であった阿弥陀仏は、さまざまな濁りに満ちた世の愚かな凡夫を哀れんで、釈尊としてその姿を迦耶城に現される。 (『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』 P.53より原文と現代語訳)
釈尊が阿弥陀仏であるならば、釈尊の本意が阿弥陀仏の本願を説く『無量寿経』にあることは必然である。
無問自説の経
また、親鸞は『教行信証』「化身土文類」の中で『仏説阿弥陀経』(『阿弥陀経』)のことを「無問自説経なり」(『浄土真宗聖典 註釈版 第二版』P.398より)といっている。無問自説とは問う者がいないのに仏が自らすすんで説いた経典ということであり、仏の本意の教説が示されるといわれる。つまり『阿弥陀経』も『無量寿経』と同じく出世本懐ということになる。親鸞は『一念多念文意』でこのことを述べている。
この経は無問自説の経という。この経をお説きになるにあたっては、釈尊に問いをおこした人もなく、自らお説きになったのである。これは、釈尊がこの世に出られた本意を明らかにしようとお思いになったからであり、そのようなわけで無問自説というのである。 (『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』P.23より)
仏教知識「浄土三部経」の「三経隠顕」にあるように、『阿弥陀経』は隠彰の立場からいえば『無量寿経』と同じく阿弥陀仏の本願(第十八願)の他力念仏の法を説くことを本意としている。つまり、これを説くことが釈尊の出世本懐であったといえる。
参考文献
[2] 『聖典セミナー 浄土三部経Ⅰ 無量寿経』(稲城選恵 本願寺出版社 1999年)
[3] 『聖典セミナー 教行信証 教行の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2004年)
[4] 『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[5] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[6] 『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2016年)
[7] 『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』(本願寺出版社 2001年)
[8] 『浄土真宗聖典全書(四) 相伝篇 上』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2016年)