耆婆(ジーヴァカ)

【ぎば】

しゃくそん在世ざいせの頃のマガダ国の医師で大臣。サンスクリット(ぼん)、パーリ語ともにジーヴァカ。漢訳かんやくでは「耆婆ぎば」「医王いおう」「薬王やくおう」としるされる。

マガダ国の国王頻婆娑羅びんばしゃら(ビンビサーラ)と娼婦しょうふとの子であったとされている。生まれてすぐに捨てられるが、無畏むい(アバヤ)王子に拾われ育てられたとされ、阿闍世あじゃせ(アジャータシャトル)のけいと伝えられる。無畏王子は耆婆を拾った際に、「まだ生きている」と言ったことから、「生きている者」を意味するジーヴァカが名前の由来とされている。厳しいカースト制度の中で娼婦との間に生まれた耆婆は、王位に就くことは難しく、タキシラ(パキスタン北東部の古代都市)でどうを学んだ。

やがて、最先端の医術を学んだ耆婆はマガダ国に戻り、頻婆娑羅の主治医となった。頻婆娑羅が帰依きえしていた釈尊の主治医にもなり、耆婆自身も釈尊に帰依しざい信者しんじゃとなった。阿闍世のクーデター(仏教知識「提婆達多」「阿闍世」参照)によって頻婆娑羅が亡くなった後も、阿闍世のしんとしてつかえ、彼の主治医でもあった。阿闍世が母だい(ヴァイデーヒー)を殺そうとした時には、大臣月光がっこうとともにこれを止めさせた。その後、父殺しの後悔により病にかかった阿闍世に「慚愧ざんぎの心をいだけば罪が消える」という釈尊の教えを示して、釈尊と会うことをすすめる(耆婆の勧説かんせつ)。阿闍世は、耆婆の勧めに応じて釈尊と会い、説法せっぽうを聴き病はえたという。

当時、平等思想をかかげる仏教は都市の市民には浸透していったが、王宮では依然としてカースト制度(差別思想)の厳しいバラモンの教えが大勢を占めていたと考えられる。このような中、耆婆は王宮にも仏教を浸透させようとしていた。これは、自身がカースト制度により苦しんだことも無縁ではないであろう。

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[2] 『仏弟子の生涯 下<普及版>』(中村元 春秋社 2012年)
[3] 『現代意訳 大般涅槃経』(原田霊道 書肆心水 2016年)

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