提婆達多(デーヴァダッタ)
提婆達多は、釈尊の十大弟子の一人である阿難の兄で、釈尊とはいとこにあたり、年齢は釈尊より30歳ほど若かったと伝えられている(諸説がある)。サンスクリット(梵語)、パーリ語ともにデーヴァダッタ。漢訳では、提婆達多、調婆達多と記され、略して提婆、調達ともいう。
提婆達多は、釈尊がさとりを開いてから15年ほど後に、釈尊に帰依して出家をしたとされる。教団で修行はするものの、いとこである釈尊が人びとから慕われ、尊敬されることが妬ましくなった。やがて、釈尊に取って代わって自らが教団のリーダーになりたいという野心を抱くようになる。その野心を達成するために、マガダ国の国王の頻婆娑羅(ビンビサーラ)を陥れようと密かに計画を立てた。なぜならば、頻婆娑羅は自分が妬ましく思う釈尊を尊敬して止まない在家信者であり、国をあげて教団を保護する絶大な支持者であったからである。
ラージャグリハ(王舎城)でマガダ国の王子阿闍世(アジャータシャトル)に近づく機会ができると、彼に神通力(超人的な力)を見せて大いに喜ばせ、彼の信用を得る。阿闍世の信頼を得た提婆達多は、彼をそそのかして国王頻婆娑羅(ビンビサーラ)を退かせるクーデターを謀らせて、自らも教団のクーデターを企てた。阿闍世がクーデターに成功し王位に就くと、阿闍世に釈尊の殺害を依頼し実行させるが失敗に終わる。次に提婆達多自らが釈尊殺害の実行に及ぶが、同じく失敗に終わった。
あきらめきれない提婆達多は、次に教団の分裂を目論んで、教団内に混乱と分断を仕掛けるために、釈尊が受け入れるはずもない要求を行った。それは、新たな五つの戒律を定めることであった。パーリ語の『律蔵』「破僧犍度」の記述によると、
- 林にすむこと(村落に入らない)
- 乞食すること(招待を受けない)
- ぼろ切れの布をまとうこと(布の施しを受けない)
- 樹の根に住むこと(屋根に覆われた家に住まない)
- 魚や肉を食べないこと
である。釈尊は、教団のこれまでの生活実践を否定するこれらの要求をすべて拒否した。すると提婆達多は、彼に賛同する五百人の弟子を引き連れて教団を出たという。しかし、すぐさまに釈尊の弟子である舎利弗(シャーリプトラ)と目連(マウドガリヤーヤナ)がこれら五百人の弟子を説き伏せて連れて帰り、そのことを知った提婆達多は、口から血を吐き無間地獄(地獄の中でも最も重い罪のものが堕ちるところ)に堕ちたとされる。このような提婆達多の生涯は、さまざまな仏典の伝承による。
仏教において、提婆達多は出仏身血(仏を傷つけ出血させる)・殺阿羅漢(聖者を殺す)・破和合僧(教団を破壊する)の三つの五逆罪を犯したもっとも極悪非道な人とされている。しかし一方で、出生から亡くなるまで実際のところがどうであったかは謎に包まれよくわからない。ただ、前述の釈尊に要求した五項目を戒律に加えて、新たな教団を率いたことは事実のようである。そのために釈尊亡きあとの教団はこれ以上の分裂を防ぐためにも、提婆達多を執拗に悪人と責める必要に駆られ、真実を消し去っていったのかもしれない。玄奘三蔵の『大唐西域記』には、玄奘がインドを訪れた当時(7世紀)にも提婆達多の教えを守る人びとがいたことが記されており、法顕三蔵の『法顕伝』(5世紀ごろの著)には、彼らは仏教徒としてさまざまな仏を供養するが、釈迦文仏(釈尊の異称)だけは供養していなかったと伝えている。
参考文献
[2] 『ブッダ その思想と生涯』(前田專學 春秋社 2012年)
[3] 『中村元選集〔決定版〕第14巻 原始仏教の成立』(中村元 春秋社 1992年)