悪人正機 (1)
悪人正機とは
阿弥陀仏の平等の慈悲(楽を与え、苦を取り除くこと)を表す語。「阿弥陀仏の救いの正しき目当て(機)は悪人である」ということ。
阿弥陀仏の救いとは人々を浄土へと往生させ、さとりを得させることである。機とは仏の救済の対象となっている者をいう。
出拠(出典)
『歎異抄』第三条によれば、宗祖親鸞は
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.833より)
(現代語訳)
善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。(『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』 P.8より)
といった。これは単に「悪人でも浄土に往生できる」ということを言っているのではない。もっと複雑である。親鸞は続けてこういった。
ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。
(上に同じ)
つまり世間の人は善人の方が悪人よりも往生しやすいと考えており、親鸞は悪人の方が善人よりも往生しやすいと考えているのである。この違いが生じる原因を考えるにあたって、まず「善」と「悪」の定義を確認する必要がある。ここを勘違いすると「悪人正機」の解釈は親鸞の意図とは全く異なったものになってしまう。
善と悪の定義
ここで述べられているのは世間一般にいわれる善悪ではなく、仏教でいわれる善悪である。
世間一般の善悪
世間一般においては人は法律や道徳を規準にして善悪を判断する。しかし、これは人々が社会を運営していく上で必要な基準であり、時代や地域が変われば容易に変わってしまう。また、人は自分にとっての都合の善し悪しを基準に善悪を判断することがある。だから、これらの基準は普遍的なものではなく曖昧なものである。
仏教の善悪
仏教における善悪とは、その行為がどういった結果をもたらすかによって分類される。さまざまな定義があるが、『阿毘達磨倶舎論』では安らかな幸せな結果をもたらす行為を善とし、反対に不快な状況をもたらす行為を悪とし、どちらでもない行為を無記とした。
また、仏教では仏道を歩む人をその修行の段階によって分類する。最高のさとりを完成した者を仏陀、煩悩を断ちきった者を聖者、煩悩をもった者を凡夫という。凡夫の中でも修行に励み、煩悩をよく制御して外に表われなくなった者を内凡または賢者、煩悩に振り回されており修行が途切れがちな者や仏教を聞かない者を外凡という(参考:仏教知識「菩薩」)。そして外凡の中に、さらに善凡夫と悪凡夫がある。悪人正機における善人、悪人とはこの善凡夫と悪凡夫のことをいう。善凡夫と悪凡夫については『仏説観無量寿経』(『観経』)の「九品段」に説かれている。これについては後で述べる。
親鸞の善悪
親鸞は仏を基準にして全ての人を悪人と考えた。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)「信文類」において「人間には清らかな心も真実の心も無い」といった。
すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 P.196より)
雑毒の善
同じく「信文類」(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.235)において、親鸞は衆生が行う善を「雑毒雑修の善」(煩悩を離れずに修めた自力の善)・「虚仮諂偽の行」(嘘偽りの行)といい、衆生がこのような偽りの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても決して生れることは出来ないといった。阿弥陀仏の行には疑いの心が少しも混じっていないが、衆生の行う自力の善にはつねに煩悩が混じっているからである。
自力に頼るということはつまり他力を信じきれていないということになる。『歎異抄』「第三条」では親鸞が自力の善を行う者を諫めている。
自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、真実の浄土に往生することができるのです。
(『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』 P.8より)
善悪の判断
『歎異抄』「後序」によれば親鸞は次のようにいった。
何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。なぜなら、如来がそのおこころで善とお思いになるほどに善を知り尽したのであれば、善を知ったといえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽したのであれば、悪を知ったといえるからである。
(『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』 P.50より)
ここにあるように親鸞は「私は如来(仏)のように善悪を知っているわけではないから、私には何が善で何が悪なのかはわからない」といった。善悪の判断を行うことができるのは仏だけである。これは絶対的な基準である。
悪人こそが阿弥陀仏の救いの目当て
同じく『歎異抄』「後序」によれば親鸞は次のようにいった。
「阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」
(『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』 P.48-49より)
「それほどに重い罪を背負う身」という言葉に親鸞の悪人としての強い自覚がみられる。そして「親鸞一人をお救いくださるため」といい、阿弥陀仏の慈悲がまさに悪人である自分自身に向けられていると考えた。
七人の子供のたとえ
悪人が阿弥陀仏の救いの目当てであることを表すたとえがある。親鸞は『教行信証』の中に『涅槃経』の次の文を引用した。
たとえばあるものに七人の子がいたとしましょう。その七人の子の中で一人が病気になれば、親の心は平等でないわけはありませんが、その病気の子にはとくに心をかけるようなものであります。王さま、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものにはとくに心をかけてくださるのです。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 P.283-284より)
この文が示すように、阿弥陀仏の救いが平等であるからこそ、阿弥陀仏は善を行うことのできない悪人に特に慈悲をかけてくださる。
悪人正機と善人正機
悪人正機・善人傍機
このように親鸞は悪人こそが阿弥陀仏の救いの正しき目当てだといった。悪人正機の「正」には「まっすぐ」「真ん中」の意味があり、仏の救いが悪人にまっすぐ向かっていることを表す。対になる言葉に「傍」があり、これには「かたわら」「そば」の意味がある。善人も仏の救いの対象には入っているが、悪人の傍らに位置している。このことを「善人傍機」という。
善人正機・悪人傍機
一方、先に引用した『歎異抄』「第三条」で親鸞が「世の人つねにいはく」といったように、世間の常識であり仏教で一般的に定説とされていた考え方は「善人正機、悪人傍機」であった。
また、仏教では「廃悪修善」(悪を廃してもって善を修す)の道が教えられてきた。これを表す文として「七仏通誡の偈」がある。これは『出曜経』の中に「仏教とは何か」という問いに答えたものとして出てきている。
諸悪莫作(もろもろの悪は作すこと莫れ)
衆(諸)善奉行(もろもろの善は奉で行え)
自浄其意(自らその意を浄くする)
是諸仏教(これ諸仏の教えなり)(『聖典セミナー 歎異抄』P.121-122より)
仏教においては善い行いがさとりをもたらし、悪い行いが迷いをもたらすと考える。これを「善因楽果、悪因苦果」という。
この考え方が阿弥陀仏の救いに適用された結果、一般に「良いことをすれば極楽に生まれ、悪いことをすれば地獄に行く」といわれるようになった。そしてこれが「行った善の程度に応じて浄土で得られる結果が変わる」という論功行賞(功績の有無や大きさの程度を調べ、それに応じてふさわしい賞を与えること)的な救済観になっていった。
「九品段」にみられる善人正機説
その救済観の典型的なものが先に挙げた『観経』の「九品段」である。ここでは外凡の衆生を「大乗仏教に遇った凡夫」(善凡夫)、「小乗仏教(※)に遇った凡夫」(善凡夫)、「悪縁に遇った凡夫」(悪凡夫)の3種に分け、さらにそれぞれを3種に分けることで9種に分類している。ここでは、その行いの善悪によってそれぞれが往生できる浄土について説かれている。善を行うものはより良い往生をし、悪を行うものは程度の低い往生をするがやがて浄土で修行をするようになる。つまり、善行を励み善人となり、少しでも高い位の往生をとげるように勧められている。
法然、親鸞の「九品段」理解
ところが浄土宗の宗祖法然や親鸞はこのようには解釈しなかった。「九品段」には表面的には論功行賞的な内容が説かれているが、この経を説かれた釈尊の真意はそうではないといった。法然は阿弥陀仏の浄土には「九品段」に説かれるような九品の差別は無いとし、釈尊が「九品段」を説かれたのは「善人も悪人も平等に救われる」と聞いて「好き放題に悪いことをしてもいい」と考える者を誡めるためであったといった。つまり廃悪修善の考え方を方便の教えとし、阿弥陀仏の救いは論功行賞的なものではないとした。
また法然は、廃悪修善の道は末法に生きる凡夫には堪えがたい道であるとし、『仏説無量寿経』に説かれる第十八願(本願)によってしか救われないといった。親鸞も法然の考えを承け『教行信証』「信文類」でこういっている。
本願によって成就された清らかな報土は、三輩・九品の別を問わない。往生すると同時に、速やかにこの上ないさとりを開くから横超というのである。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 P.239より)
つまり阿弥陀仏の浄土においては善人も悪人も往生すると同時に最高のさとりを完成せしめられるから、九品の差別は存在しないといった。
このような善人正機説から悪人正機説への転換は仏教の見方を大きく変えてしまうものであった。
まとめ
以上みてきたように、悪人正機とは阿弥陀仏の平等の救いを表す語である。平等であるからこそ仏は悪人を正しき目当てとして慈悲をかけてくださっている。決して「悪いことをした方が救われやすい」という意味ではない。
続く仏教知識「悪人正機 (2)」では悪人正機という言葉の出拠(出典)やその提唱者、また悪人正機の誤解に関する話を扱う。
- ※ 小乗仏教
- 部派仏教。小乗とは、サンスクリットで「劣った乗物」を意味する。当時の部派仏教は守旧的で煩瑣(こまごまとわずらわしいこと)な教学に終始していたとされる。これに批判的な新勢力が、部派仏教は自利(みずから利益を得ること)を図るだけであるとして「劣った乗物」であるとした。新勢力は、自らの教えを利他(他人を利益すること)の精神で大衆を救済する「すぐれた乗物」であり、大乗と称した。このように小乗とは、大乗と称した勢力からの貶称(みさげる呼称)であり、現在は、「小乗」という呼称を用いるべきではない。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗聖典全書(六) 補遺篇』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2019年)
[4] 『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』(浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1998年)
[5] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[6] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[7] 『聖典セミナー 歎異抄』(梯實圓 本願寺出版社 1994年)
[8] 『親鸞聖人の教え・問答集』(梯 實圓 大法輪閣 2010年)
[9] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[10] 『親鸞教義の誤解と理解』(村上速水 永田文昌堂 1984年)
[11] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)