鳩摩羅什
中国、後秦時代に活躍した訳経僧(※1)。生没年は不明であるが、344~413年と350~409年説がある。
亀茲国から涼州の時代
『高僧伝』(14巻 慧皎)の伝記などによると、鳩摩羅什はインド系出身のクマーラヤーナを父として、亀茲国国王の娘ジーヴァーを母として、亀茲国(現在の新疆ウイグル自治区クチャ)に生まれた。「鳩摩羅什」はサンスクリット(梵語)で「クマーラジーヴァ」の音訳であり、これは父母の名前に由来する。
7歳の時に母とともに出家した。そして、母とインドの罽賓国(現在のカシミール地方が有力説)に訪れて、部派仏教(※2)の一つである説一切有部(※3)を学んだ。その後、亀茲国に帰国する途中で大乗仏教(※4)を知って、この教えに転向したとされる。
384年、将軍呂光(後に後涼を建国)が亀茲国を攻めた際に捕虜となり、涼州(現在の中国甘粛省)に連行され、18年間を過ごした(捕虜ではあるが軍師のような役割を果たしたとされる)。しかし、後涼の力が衰退すると、後秦の王である姚興が鳩摩羅什を仏教の師として長安(現在の陝西省西安市)に迎え入れた。
長安の時代
長安に移った鳩摩羅什は、熱心な仏教徒でもあった姚興に請われて、この地で没するまでの十数年、さまざまな「経」「律」「論」(仏教知識「経」参照)を漢語に訳出(漢訳)した。浄土真宗本願寺派などで勤行に用いられる『仏説阿弥陀経』をはじめとして、その訳出は多数(※5)に上る。当時の訳出は、単なる翻訳作業に止まらず、多くの僧侶が参加する講義でもあった。鳩摩羅什は、梵本(サンスクリット原典)を片手にしながら漢語を巧みに話して解説を行ったとされ(漢語が話せない訳経僧も多かった)、その門弟は三千人余りとされる。これら、翻訳作業や講義、さらに当時の中国仏教第一人者と言われた廬山の慧遠(※6)との問答は、その後の中国仏教に多大な影響を及ぼした。たとえば、「問答」の中で「部派仏教」の「阿毘達磨論」に執着していた慧遠に対して、「大乗仏教」の『大智度論』がすぐれていることを説いた。これまで漫然としていた「大乗仏教」と「部派仏教」の区別をつけて、それぞれの経典の役割と経典の説かれた時期によって、その思想が違う理由を説明する方法を取り入れた。これが、後の中国仏教の「教相判釈」(仏教知識「教相判釈」参照)へと進んでいくこととなる。
鳩摩羅什は、かつて女性と肉体関係を持ち、「律」を破った破戒僧であることに苦しんだ。そのために中国で最初に漢訳された「律」である『十誦律』(61巻)(説一切有部の「律」)を訳出する際には、破戒僧には「律」を訳出する資格がないと考えたのか、戒律を暗誦できないことを理由として、インドから到来したプニヤターラ(弗若多羅)に誦出(翻訳作業の場で梵語などの原文を暗誦すること)を依頼して共訳とする生真面目さがあった。講義の際には弟子たちに、悟りを目指す者は、「蓮華の花のみを取り、汚泥をつかむことのないように」と破戒したことを自覚した中で諭したとされる。
鳩摩羅什の没する時の様子が『高僧伝』(巻2)に記されている。以下に「原文」と「私訳」を示す。
若所傳無謬者。當使梵身之後舌不燋爛。(中略)
即於逍遙園依外國法以火焚屍。薪滅形碎唯舌不灰。 (『大正新脩大蔵経』第50巻 333頁上引用)
<私訳>
(鳩摩羅什は生前に私が亡くなった時に)「私の訳した仏典に間違いが無ければ、火葬の後にも舌は焦げ爛れることはない」と言った。(中略)
(鳩摩羅什が)亡くなって言われたように外国の方法によって火葬すると、薪が無くなると姿形はなく、舌だけが焼け残った。
このことが真実かどうかは別として、鳩摩羅什の訳経にかけた信念を伝えようとした意図が窺える。漢訳仏典は、鳩摩羅什からの訳経を「旧訳」として、それから約200年後、この「旧訳」を批判した玄奘が現れる。これを画期として、玄奘以降の訳出を「新訳」とする。
語注
- ※1 訳経僧
- 仏典を梵語などから漢語に訳出(翻訳)する僧侶
- ※2 部派仏教
- 釈尊入滅(亡くなる)から100年後、仏教教団は戒律に関する解釈をめぐって内部で対立して、保守的な「上座部」と進歩的な「大衆部」に分裂した。これら二つからさらに分裂を繰り返し、多くの部派に分かれていった。これらの部派での教義を「部派仏教」(貶称として「小乗仏教」)と呼ぶ。
- ※3 説一切有部
- 部派仏教の中で最も優勢であった部派。『華厳五教章』(法蔵)の「十宗」の判別では「法有我無宗」となる。(仏教知識「華厳宗」参照)
- ※4 大乗仏教
- 部派仏教が保守的で煩瑣(こまごまとわずらわしいこと)な教学に終始しているとして、これに批判的な新勢力によって成立した教え。新勢力は、自らの教えを利他(他人を利益すること)の精神で大衆を救済する「すぐれた乗物」であり、大乗と称した。このように小乗とは、大乗と称した勢力からの貶称(みさげる呼称)であり、現在は、「小乗」という呼称を用いるべきではない。
- ※5 鳩摩羅什の訳出した仏典
-
膨大な数の仏典を訳出しており、その数は300巻余りに及ぶとされる。特に龍樹を祖とする大乗仏教の一派である「中観派」の仏典が多い。以下に主な訳出仏典を挙げる。
題名 巻数 原典著者 経 『摩訶般若波羅蜜経』 二十七巻 『摩訶般若波羅蜜経』 十巻 『金剛般若波羅蜜経』 一巻 『妙法蓮華経』 七巻 『維摩詰所説経』 三巻 『仏説阿弥陀経』 一巻 『仏説弥勒下生成仏経』 一巻 『仏説弥勒大成仏経』 一巻 『坐禅三昧経』 三巻 律 『十誦律』 六十一巻 論 『中論』 四巻 龍樹 『十二門論』 一巻 龍樹 『百論』 二巻 提婆 『大智度論』 百巻 龍樹 『十住毘婆沙論』 十七巻 龍樹 『成実論』 十六巻 訶梨跋摩
以上 題名と巻数は『大正新脩大蔵経総目録』を参照した。 - ※6 慧遠
- 中国、東晋時代の僧侶(浄影寺の慧遠とは別人)。晩年から没するまで廬山の東林寺にいたことから、「廬山の慧遠」と呼ばれる。鳩摩羅什とは親交を結び、手紙による二人の問答は、『鳩摩羅什法師大義』(三巻 慧遠問・羅什答)(『大乗大義章』)としてまとめられている。また、念仏修行の誓いを立てた結社である白蓮社を作ったことなどから中国浄土教の祖とも見なされることがある。中国仏教教団の基礎を作った。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『新編 大蔵経―成立と変遷』(京都仏教各宗学校連合会編 法蔵館 2020年)
[4] 『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』(船山 徹 岩波書店 2013年)
[5] 『仏教の聖者 史実と願望の記録』(船山 徹 臨川書店 2019年)
[6] 『大正新脩大蔵経 第50巻』(大蔵出版 1990年)
[7] 『大正新脩大蔵経総目録』(大蔵出版編集部編 大蔵出版 2007年)