玄奘 前編 ―原典を求めての旅―
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中国、唐の時代に活躍した漢人(漢族の人)の訳経僧(※1)。俗名は陳褘である。生没年は、600~664年と602~664年の二説がある。日本で最も有名な「三蔵法師」(仏教知識「経」参照)である。これは、玄奘が記した『大唐西域記』(12巻)(※2)を題材にした小説『西遊記』(作者不明)が日本でテレビドラマとなり流行したためと思われる。
洛陽から長安・成都の時代
『大慈恩寺三蔵法師伝』(10巻 慧立・彦悰)の伝記などによると、玄奘は随の時代末期、父陳慧の四男として、洛州緱氏県(現在の河南省洛陽市)に生まれた。父は儒者(儒学を修める人)の服装を身に纏い、栄進(出世)にはこだわらない生活をしていたとされる。幼いころに、父から儒学(孔子に始まる政治、道徳の教え)を学び、その聡明さは評判になっていた。
この聡明な玄奘が仏教に出遇うのは、兄の長捷が出家して洛陽の浄土寺に住むようになったのがきっかけである。そして、わずか13歳(15歳)にして『維摩経』や『法華経』を唱えるようになったという。この頃に、隋の皇帝煬帝が新たに洛陽で僧侶の国家試験を行うが、玄奘は年少で対象外であるにも関わらずこれに志願した。この時に、玄奘と言葉を交わした役人鄭善果は、玄奘のただならぬ風格を感じ取り、この幼い子は仏門にとって偉大な人材になるとして、特例として出家させた。15歳(17歳)で『涅槃経』『摂大乗論』を学び、師から一度聴聞するだけですべてを理解するほどの秀才であったという。
618年、煬帝が高句麗(現在の中国東北部南部から朝鮮半島北部)遠征を失敗したことにより、国力は衰退して各地で反乱が起きた。その後、煬帝が臣下に殺されて隋が滅びると、隋の武将であった李淵が皇帝に就き国名を唐と改めた。玄奘と長捷は、洛陽の動乱を避けるために李淵が治める長安(現在の陝西省西安市)へと移った。しかし、長安も情勢が不安定なために、玄奘らが望むような学問が行えず、さらに西南の大都市である成都(現在の四川省成都市)の空慧寺に移った。
成都から長安の時代
622年、玄奘は具足戒(※3)を受けて正式の僧侶となった。成都に移ってからも学問への情熱は変わらず、若くしてその名声はかつて中国仏教教団の基礎を作った廬山の慧遠(※4)を凌ぐほどであったといわれる。しかし、そのような名声にも満足することなく、更なる学問のために再び長安に戻ることを決意して、空慧寺に留まる兄とはここで別れることとなる。当時は僧侶に移動の制限があったために、商人に紛れての隠密行動であった。途中、荊州(現在の湖北省)の天皇寺で講義を行い、相州(現在の河南省)、趙州(現在の河北省)では高僧たちからさまざまな「論」についての講義を受けた。
624年、長安に戻ると『倶舎論』などを学んだが、学問が進むにつれて疑問が大きくなっていく。この頃すでに、玄奘の「経」、「論」(仏教知識「経」参照)についての理解は、他に並ぶ者がいないと称えられるまでになっていた。しかし、特に唯識派(※5)に傾倒していた玄奘は、漢訳された「経」、「論」では所説に異同(不一致)があり、唯識の「論」である『瑜伽師地論』も、当時は断片的な部分訳しかなく十分な理解には至らず、疑問が増えるばかりであった。これらの疑問を解消するには、インド由来の原典がどのように書かれているのかを知ることが必要であると考えるようになる。そのためには、膨大な原典を手に入れなければならない。玄奘は、原典を求めるためにインドへ赴く決意をした。
長安からインドの時代
629年、西域(玉門関(敦煌より西))への往来は禁止されていた中、玄奘は何人かの仲間と共にインドへ渡る許可を唐の皇帝太宗(唐の二代皇帝で李淵の次男)に願い出たが却下された。あきらめきれない玄奘は、一人で国禁を犯して密出国することとなる。
長安を出発し、秦州(現在の甘粛省)、蘭州(現在の甘粛省蘭州市)を通り、西の周辺諸民族を統治していた涼州(現在の甘粛省ニンシヤホイ族自治区)に入る。ここで一ヶ月ほど滞在して民衆に仏教の講義を行い、瓜州(現在の甘粛省瓜州県)を経て、西域への国境、玉門関まで到達した。
国禁を犯して玉門関を抜けた玄奘は、高昌国(現在の新疆ウイグル自治区トルファン)に入る。玄奘は、ここで国王麹文泰に手厚くもてなされ、高昌国に留り仏教を弘めることを懇願されるが、これを断った。国王は、この玄奘の態度に激怒して、さらに国に留まるように説得するが、玄奘の堅い決意を目の当たりにして、説得をあきらめる。そして、玄奘が無事にインドにたどり着けるように、往復にかかるであろう20年分の金銀やその他さまざまに必要なものを玄奘に与えた。また、道中の24か国の王たちに、玄奘が無事に旅を続けられるように依頼状を書き、それぞれの国王に贈り物をした。これら麹文泰の支援が、その後の旅を成功させたと言っても過言ではない。その後、天山山脈の南側を西へと進み、山脈を北に越えて中央アジアを経て北インドに入る。カシミールなどで数年、高僧たちの教えを受けた。
632年、中インドの世界最古の大学といわれたナーランダー寺(※6)に入ると、学頭(責任者、学長)であるシーラバドラ(戒賢)(※7)と会見してここでの滞在を許される。その待遇は、十分な飲食物を与えられ、雑用係1名、研究補助として1名、外出の際には象の輿に乗ることまで許されて、僧侶としての雑務はすべて免除されるという破格の扱いであった。ここでは、数千人もの僧侶が仏教を学んでいたとされるが、このような待遇はわずか10名ほどで、玄奘への評価がいかに高かったかが窺える。これ以降、玄奘のインドでの活動は、このナーランダー寺を拠点として行われる。また、シーラバドラからは、玄奘がこの旅での最大の目的であったとされる『瑜伽師地論』を5年間に及んで学んだ。その後、東インド、南インドにまで赴き、さまざまな学問を修めて、インドの言語にも精通したという。
641年、ナーランダー寺において、シーラバドラの代わりに講義をするまでになっていた玄奘は、インドで学んだことを中国に伝えるために帰国の決意をする。
語注
- ※1 訳経僧
- 仏典を梵語などから漢語に訳出(翻訳)する僧侶。
- ※2 『大唐西域記』
- 全12巻。玄奘が著したインド、中央アジアに関する見聞録。玄奘がインドへの旅の途中で見た仏跡や不思議な光景、各国の地理、歴史、宗教事情が記されている。玄奘が中国に帰った645年、唐の皇帝太宗が命じて作らせた。
- ※3 具足戒
- 「正式」に出家したものが教団内で守るべき戒律。未成年で教団に入っても、具足戒を受けられるのは20歳を超えてからで、これを受けて正式の僧侶と認められる。
- ※4 慧遠
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- 中国、東晋時代の僧侶(浄影寺の慧遠とは別人)。晩年から没するまで廬山の東林寺にいたことから、「廬山の慧遠」と呼ばれる。鳩摩羅什とは親交を結び、手紙による二人の問答は、『鳩摩羅什法師大義』(三巻 慧遠問・羅什答)(『大乗大義章』)としてまとめられている。また、念仏修行の誓いを立てた結社である白蓮社を作ったことなどから中国浄土教の祖とも見なされることがある。中国仏教教団の基礎を作った。
- ※5 唯識派
- 認識の対象は外界の事物でなく、心(識)の内に現れた事物であるとして、ヨーガ(瑜伽)の実践を通して、外界の対象に対する誤った認識をはなれるという学派。アサンガ(無着)・ヴァスバンドゥ(天親 玄奘訳は「世親」)の兄弟が大成したとされる。いわゆる大乗仏教で、中観派とならぶ二大学派とされる。
- ※6 ナーランダー寺
- 那爛陀寺。五世紀にクプタ王朝時代、ラージギール(旧マガタ国)に創建された世界最古の大学の一つであった。仏教研鑽の拠点となり、14世紀まで存続した。ダルマパーラ(護法)やシーラバドラ(戒賢)を輩出し、中国からは玄奘や義浄も留学した。
- ※7 シーラバドラ
- 東インド出身の唯識派の僧侶。漢訳名「戒賢」。ナーランダー寺で師のダルマパーラ(護法)に次いで学頭となる。玄奘に『瑜伽師地論』を伝えた。玄奘と会見した時にはすでに100歳を超えていたと伝えられる。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『新編 大蔵経―成立と変遷』(京都仏教各宗学校連合会編 法蔵館 2020年)
[4] 『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』(船山 徹 岩波書店 2013年)
[5] 『仏教の聖者 史実と願望の記録』(船山 徹 臨川書店 2019年)
[6] 『大蔵経の歴史―成り立ちと伝承―』(宮崎展昌 方丈堂出版 2019年)
[7] 『玄奘』(三友量順 清水書院 2016年)
[8] 『大正新脩大蔵経 第50巻』(大蔵出版 1990年)
[9] 『大正新脩大蔵経総目録』(大蔵出版編集部編 大蔵出版 2007年)