新訳
漢訳仏典の新しい訳のこと。仏典をサンスクリット(梵語)などから漢語に訳出(漢訳)したものを漢訳仏典と呼ぶが、これらは特定の時代区分により、「旧訳(旧い訳)」と「新訳」に分類される。その時代区分の画期は、唐の時代に活躍した訳経僧(※1)、玄奘(仏教知識「玄奘」(「前編」・「後編」)参照)の訳である。玄奘より前の漢訳仏典を「旧訳」として、玄奘以降を「新訳」とする。これは、玄奘がそれまでの漢訳仏典には訛謬(訛はなまり 謬は誤り)があると批判して、鳩摩羅什(仏教知識「鳩摩羅什」参照)などによって定型となっていた多くの訳語を新訳語に改めた(※2)ことと、原典に対して語学的に忠実であることを目指したことにある。
「新訳」時代に活躍した訳経僧(※3)として、玄奘、義浄、実叉難陀、菩提流志、善無畏、金剛智、不空などがいる。それぞれの主な仏典を以下に挙げる。
訳出者 | 題名 | 巻数 |
---|---|---|
玄奘 | (仏教知識「玄奘 後編」参照) | |
義浄 | 『金光明最勝王経』 | 十巻 |
『仏説大孔雀呪王経』 | 三巻 | |
『根本説一切有部毘奈耶』 | 五十巻 | |
『根本説一切有部苾芻尼毘奈耶』 | 二十巻 | |
実叉難陀 | 『大方広仏華厳経』 | 八十巻 |
『大乗入楞伽経』 | 七巻 | |
菩提流志 | 『大宝積経』 | 百二十巻 |
善無畏 | 『大毘盧遮那成仏神変加持経』(『大日経』) | 七巻 |
金剛智 | 『金剛頂瑜伽中略出念誦経』 | 四巻 |
不空 | 『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』 | 二巻 |
『大楽金剛不空真実三麽耶経』(『理趣経』) | 一巻 |
以上
題名と巻数は『大正新脩大蔵経総目録』を参照した。『大宝積経』は49の独立経典を菩提流志が訳出と編集しているために訳出者は複数である。『大日経』は一行と共訳と記載されている。
これら「新訳」の訳経僧として特に功績の大きかったのは玄奘である。玄奘は漢人(漢族の人)であるが、原典を求めてインドに赴き、これらを蒐集(研究資料を集める)することだけに止まらず、各地の高僧から教義を学ぶことも怠らなかった。その期間は往復でおよそ16年に及ぶ。玄奘が帰国すると、唐の皇帝太宗の勅命により、玄奘の持ち帰った仏典の訳出が国家事業となった。そして、訳出する際に意訳してはならないものとして「五種不翻」(※4)の原則を確立したとされる。仏教学者の船山徹は、これまでの「旧訳」とは異なる訳出について、
玄奘の訳経は太宗と高宗による国家規模の万全の支援体制を背景に行われ、質量ともに前代までと一線を画した。とりわけ訳語選定の厳密性と刷新性、そして首尾一貫性の点に玄奘訳が新訳と言われる所以がある。玄奘のインド巡礼に基づく地理書である弁機『大唐西域記』、道宣『釈迦方志』や各種注釈書類において玄奘の弟子たちは、数多くの音訳について玄奘の音訳を正しいものとし、古い音訳を誤ったもの、省略的なものとして批判する。また玄奘は意訳についても多数の新語を創り出し、後代にも絶大な影響を与えた。 (『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』 P.42引用)
として、訳経僧として最も偉大な事績を残したと指摘する。
そして、玄奘が多数の仏典を訳出できた理由は、「国家規模の万全の支援体制」だけではない。それは、この「新訳」体制が鳩摩羅什などの「旧訳」体制とは異なり、講義などを並行しない仏典を訳出するためだけの専門家集団とされたためである。このような国家事業としての組織的な訳出は、12世紀初め宋の時代に終焉する。
- ※1 訳経僧
- 仏典を梵語などから漢語に訳出(翻訳)する僧侶
- ※2 旧訳の訳語と玄奘による新訳語の例
-
サンスクリット(梵語) 鳩摩羅什訳 玄奘訳 ボーディ・サットヴァ 菩薩 菩提薩埵 サットヴァ 衆生 有情 アヴァローキテーシヴァラ 観(世)音 観(世)自在 シラーヴァスティー 舎衛国 室羅伐悉底 - ※3 「新訳」時代に活躍した訳経僧
-
- 玄奘
- 仏教知識「玄奘」(「前編」・「後編」)参照
- 義浄(635~713)
- 唐の時代の訳経僧。斉州(現在の山東省済南市)出身で、仏典の原典を求めて広州(現在の広東省)から海路インドへ赴き、玄奘も滞在したナーランダー寺に留学する。25年にわたり三十数か国を巡り、多数の原典を持ち帰り、これらを訳出した。
- 実叉難陀(652~710)
- 唐の時代の訳経僧。于闐(現在の新疆ウイグル自治区ホータン)出身で、唐の則天武后に招かれ洛陽(現在の中国河南省)で活躍する。
- 菩提流志(?~727)
- 唐の時代の訳経僧。サンスクリット(梵語)でボーディルチ。「旧訳」時代の「菩提流支」とは別人。南インド出身で、唐の皇帝中宗に招かれて長安(現在の陝西省西安市)で活躍した。
- 善無畏(637~735)
- 唐の時代の訳経僧。サンスクリット(梵語)でシュバカラシンハ。中インド出身で王位を捨ててナーランダー寺に入る。達磨掬多より密教を学び、80歳で、達磨掬多の勧めで長安に移り活躍した。
- 金剛智(671~741)
- 唐の時代の訳経僧。サンスクリット(梵語)でヴァジラボーディ。南インド出身でナーランダー寺で出家し、スリランカ、スマトラを経て海路で中国に入り、長安、洛陽で活躍した。
- 不空(705~774)
- 唐の時代の訳経僧。サンスクリット(梵語)でアモーガヴァジラ。北インド出身の父と康国(現在のウズベキスタン東部)出身の母との間に生まれる。出生地は不詳。13歳で叔父に連れられ長安に入り、金剛智を師として出家した。師金剛智が亡くなると仏典の原典を求めてインドに赴き、多数の原典を持ち帰り、これらを訳出した。
- ※4 五種不翻
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意訳せずに音訳に止めるべき五種の分類。
- ①善故不翻
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例:仏陀
意訳するよりもありがたく、修行や信仰の善い行いにつながるため。 - ②秘密不翻
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例:蘇婆訶
陀羅尼などは、意訳すると呪術的効果がなくなるため。 - ③含多義故不翻
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例:阿羅漢
原語が多義(複数)であり、意訳することで、他の意味が失われるため。 - ④順故不翻
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例:阿耨多羅三藐三菩提
前の時代から音訳されてそれが一般的になっている場合、あえて意訳する必要がないため。 - ⑤無故不翻
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例:閻浮樹(神話的大樹)
中国にない事物だから意訳できないため。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『新編 大蔵経―成立と変遷』(京都仏教各宗学校連合会編 法蔵館 2020年)
[4] 『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』(船山 徹 岩波書店 2013年)
[5] 『玄奘』(三友量順 清水書院 2016年)
[6] 『仏教の聖者 史実と願望の記録』(船山 徹 臨川書店 2019年)
[7] 『大正新脩大蔵経総目録』(大蔵出版編集部編 大蔵出版 2007年)