『安心論題 四』- 二種深信
「安心論題(十七論題)」に設けられた論題の一つ。二種深信はその4番目に位置づけられる。
題意(概要)
『仏説観無量寿経』(『観経』)には至誠心・深心・回向発願心の三心が説かれている。真宗七高僧第五祖の善導大師はこの中の深心を解釈し、「機の深信」と「法の深信」という二種の深信として示した。これらは他力信心の性質を2つの側面から説明するものであり、別々のものではなく、また矛盾するものでもない。このことを考察するのがこの論題である。
出拠(出典)
善導は『観無量寿経疏』(『観経疏』)「散善義」の「深心釈」において次のように述べた。
「二には深心」と。「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.457より)
また同じく『往生礼讃』「前序」に次のように述べた。この論題ではこれらを出拠とする。
二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.654より)
釈名(語句の定義)
二種
「二種深信」の二種とは、出拠として示した「散善義」の文に「一には」「二には」として述べられた二種のことである。前者を「機の深信」「信機」などと呼び、後者を「法の深信」「信法」などと呼ぶ。浄土真宗においては衆生は阿弥陀仏の本願力によって救われる(浄土へ生まれてさとりを開く)。救う側である阿弥陀仏のはたらきを「法」といい、救われてゆく側の衆生を「機」という。
機の2つの意味
機とは救われてゆく衆生のことであるが、これには2つの意味がある。「救いのはたらきを受けるべき私たち」と「救いのはたらきを受けた私たち」である。前者の意味で機という言葉を用いるときは仏教知識「『安心論題 一』- 聞信義相」、「仏願の生起本末」で述べた「決してこの迷いの世界から抜け出すことのできない私たちが、阿弥陀仏が私たちのために起こされた本願を聞く」という文脈になる。後者の意味で用いるときは「阿弥陀仏の救いのはたらきが私たちのところで信心となってはたらく」、もしくは「救いのはたらきを受けた私たちが必ず往生成仏することが決定する(正定聚に入る)」といった使われ方をする。
機は二種深信の論題では前者の「救いのはたらきを受けるべき私たち」の意味で用いる。一方、「機法一体」という論題では後者の「救いのはたらきが私たちのところではたらく信心」という意味で用いる。
深信
出拠の「散善義」の文にあるように、善導は『観経』に説かれる至誠心・深心・回向発願心の三心の一つである深心を「深く信ずる心」と解釈した。これが「二種深信」の深信である。真宗七高僧第七祖法然聖人は『観経』の三心と『仏説無量寿経』(『大経』)の三心は同じであり、『観経』の深心は『大経』の第十八願文の信楽に対応するとした(※1)(仏教知識「三心」参照)。そしてこれは第十八願成就文の信心歓喜である。
結局、深信とは第十八願文の信楽であり、それを「機」と「法」との二種に開いたものを二種深信という。「散善義」に「一には」と述べられる深信を「機の深信」といい、「二には」と述べられる深信を「法の深信」という。機の深信は衆生(機)の本来のすがたを信知することであるからこれを「信機」ともいい、法の深信は阿弥陀仏の救いのはたらきを信知することであるからこれを「信法」ともいう。
- ※1 自力の三心と他力の三心
- 仏教知識「顕彰隠密」で述べたように『観経』には自力修行による浄土往生を勧める「顕」の見方と他力念仏による浄土往生を勧める「隠」の見方がある。それぞれの見方をするとき、『観経』の三心もまた自力の三心、他力の三心として見ることができる。『大経』は他力念仏による浄土往生を勧める経典である(隠顕の区別がない)ため、『観経』の三心が『大経』の三心と同じという場合は『観経』の三心を他力の三心として見ることを前提とする。
義相(本論)
機の深信と法の深信は矛盾するのか
「散善義」の機の深信の文を「地獄ゆき間違いなしの私と信知する」、法の深信の文を「浄土往生を得ること間違いなしの私と信知する」と解釈することができる。『歎異抄』「第二条」には宗祖親鸞の言葉として「とても地獄は一定すみかぞかし(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.833より)」とある。同様に「第九条」には「いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ(同じくP.837より)」とあり、これらがそれぞれに対応する。一方は「地獄行き決定の私」、もう一方は「浄土往生決定の私」となる。これらは矛盾するのではないか(結局私は地獄に行くのか浄土に往くのか?)という解釈がある。
いづれの行もおよびがたき身
この見方は誤りであり、これらは矛盾するものではない。「第二条」の「とても地獄は一定すみかぞかし」の直前には「いづれの行もおよびがたき身なれば」という言葉がある。これはつまり「私たちはどんなに修行をしてもこの迷いの世界を抜け出してさとりの世界に渡ることはかなわない身である」ということである。「そのような身であるから」地獄行きが間違いないと信知するのが機の深信である。ここで肝心なのは「そのような身であるから」の部分である。どんなに修行をしても迷いの世界を抜け出せない、すなわち自らの持っているものが迷いの世界を脱け出すのに何の役にも立たないと知るということは、そのまま修行に頼ろうとする心、自らの持っているものに頼ろうとする心がなくなるということである。つまり自力の心を捨てるということである。これは機のはからいともいわれ、これを捨てることを「捨機」「捨自」ともいう。
捨機即託法、捨自即帰他
一方、法の深信とは阿弥陀仏の本願力に私の全てをおまかせしたならば間違いなく私を浄土往生させていただけると信知することである。これはそのまま阿弥陀仏の本願力に私の全てをおまかせするという心である。つまり他力に帰することであり、法に自らを託すことである。これらを「帰他」「託法」という。
捨機は機のはからいを捨てることであり、これは法に全てを託すことを意味する。これを「捨機即託法」という。捨自は自力の心を捨てることであり、これは他力に帰することを意味する。これを「捨自即帰他」という。
二心並起、前後起の異安心(※2)
先に述べたように、機の深信(機について信知すること)はそのまま法の深信(法について信知すること)である。つまり、1つの出来事を2つに開いて説明しているのであってこれらは別々の心ではない。これを別々の心とする解釈を「二心並起」といい、これは異安心とされる。
また、機の深信と法の深信に前後関係があるとする解釈がある。これらは同じ心なのだから同時であり、そこに前後関係はない。もし前後関係があると仮定すると、機の深信がなければ法の深信が起こらないことになってしまう。これは「阿弥陀仏の救いにあずかるために、まず自分自身が地獄に堕ちきってしまうことが必要なのではないか」という考え方に発展してしまう可能性がある。この解釈を「前後起」といい、これも異安心とされる。なお「散善義」では二種深信に「一には」「二には」と順序がつけられているが、これは説明の際に順序がつけられただけであって2つの心の順序を規定したものではない。
この「前後起」の考え方は信心をいただいた後に機の深信がなくなってしまうという解釈にも繋がっていく。確かに信心をいただくことで浄土往生が決定すれば「地獄行き間違いなし」ではなくなるが、それでも私たち自身が「いづれの行もおよびがたき身」であることに変わりはない。機の深信は変わらず存在し続けるのである。
このように、『観経』の深心すなわち本願文の信楽一心に具わったものを開いたのが二種深信である。このことを二種一具という。
- ※2 異安心
- 浄土真宗における正統な教義とは異なった理解にもとづく信心のこと。
『観経疏』「散善義」と『往生礼讃』の比較
出拠として挙げた2つの文を比較することで以下のことがわかる。
「散善義」 | 『往生礼讃』 | 比較してわかること |
---|---|---|
深心 → 深く信ずる心 | 深心 → 真実の信心 | 深心 = 深信の心 = 真実信心 |
「~と信ず。」 | 「~信知して、」 | 深信とは信知である |
機の深信に 「罪悪」 |
機の深信に 「善根薄少」 |
罪悪感よりも迷いの世界を 脱け出す力を持たない 自己に重点が置かれる |
法の深信に 「かの願力に乗じて」 |
法の深信に 「名号を称すること」 |
念仏往生とは、そのまま 願力による往生である |
法の深信と同一ではない機の深信
親鸞は「散善義」で示された深信について『愚禿鈔』の中で「七深信」としてまとめている。
七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利
の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ
利他の信海なり。
(後略)(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.522より)
ここでいう自利は自力、利他は他力を表している。つまりこの文によれば機の深信とは自力の信心であり、法の深信とは他力の信心である。しかし一方で同じく『愚禿鈔』において
いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.521より)
とし、二種深信が他力の信心であることも示している。なぜこのような違いが生じるかというと、法の深信と別々になった機の深信が存在するからである。このような機の深信は善導が「散善義」に述べた「二河白道の譬え」(仏教知識「二河白道 (1)」)に示された「三定死」のようなもの、すなわち救いようのない絶望だといわれている。このような機の深信を自力の信心という。
これは二種深信における、法の深信と一具になった機の深信とは異なっている。なぜならば二種深信における機の深信とは決して絶望ではなく、ありのままの私のすがたを信知することだからである。ありのままの私のすがたは阿弥陀仏の光明に照らし出されることで信知することができる。そのとき、私は阿弥陀仏の光明に照らし出されているのだから光明の中にいることになる。これは絶望ではない。法の深信と一具になった機の深信は絶望ではなく、一具になっていない機の深信は自力の信心であり絶望を表している。
聞信義相との関係
「『安心論題 一』- 聞信義相」では仏願の生起本末を聞き、そのまま受け入れることが信であるとされる。この意味を考えると「仏願の生起を聞いてそのまま受け入れる」ことが機の深信にあたり、「仏願の本末を聞いてそのまま受け入れる」ことが法の深信にあたることがわかる。このように、「聞信義相」「二種深信」、そして「仏願の生起本末」は深い関連を持っている。
結び(結論)
二種深信とは本願の信楽一心を二種に開いたものであり、迷いの世界を脱け出すのに役立つものを私が何ひとつとして持っていないことを信知する機の深信と、阿弥陀仏の願力によって私が救われてゆくことを信知する法の深信から成る。これらは別々のものではなく、前後関係が成り立つものでもない。すなわち一方が成立すれば他方も同時に成立する。このことを「捨機即託法」、「捨自即帰他」と表す。また、信心が開けおこった後も二種深信は続いてゆく。
また安心論題の内容からは離れるが善導・法然と親鸞では深信の解釈が少し異なっている。これについては仏教知識「深信(二種深信)」で少し触れられているのでそちらを参照のこと。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[3] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2002年)
[4] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)