お経の暗記
はじめに
なんとなく世間の人が抱いているイメージとして「お坊さんはお経を暗記している」というものがあるのではないかと私は思っています。しかし私はお経(正確には、勤行に用いるお聖教)をあまり覚えられていません。今回はそんな話をします。
私は昔から暗記がとても苦手でして、学生時代も暗記が重要な科目(特に社会科)の成績は壊滅的でした。長い『仏説阿弥陀経』はもちろんのこと、日常でお勤めに用いる偈文(「正信念仏偈」、「讃仏偈」、「重誓偈」)でさえも覚えているとは言いがたいです。短く、頻繁に勤める「讃仏偈」と「重誓偈」は流石にほぼ覚えてはいるのですが完璧ではありません。もう1万回は読んでいるはずなのですが……。他の僧侶がどうなのかは聞いてみないとわかりませんが、少なくとも今まで出会った方々で私より酷い人は居ない気がします。
また、この「ほぼ覚えている」という状態は危ういです。お勤めの際には経本を開いて持ちますが、気づけば一度も見ないままお勤めが終わっていることもあります。一方、ふと「今どのあたりを読んでいるのだろう」と考えてしまうと途端に続きが思い浮かばなくなることがあります。しばらくの間は口がひとりでに続きを読み上げていくのですが、いつ途切れるのかわからない状態です。こんな有様ですから、私は未だに無本(経本を使わないこと)でのお勤めは不安なのでやらないようにしています。
暗記試験
「そんなにいい加減な状態で僧侶になれるの?」と思われるかもしれませんが、試験はあります。浄土真宗本願寺派では得度習礼といって僧侶の資格を取るための数日間の研修があります。その中で勤行や作法などさまざまなことを学ぶのですが、ちゃんとできているかどうかを問う試験があります。私が行ったときには「正信念仏偈」の暗記が必要でした。ただ試験はさほど厳しくなく、部分的に覚えていればそれでOKでした。当時、お釈迦様が出てくるところぐらいまでを覚えた後、善導大師が出てくるところから後を覚えてギブアップした記憶があります。
勉強が足りないのでは?
「覚えられないのは内容の理解が足りないせいだ。勉強すれば自然に覚えるのでは?」という疑問もあると思います。ごもっともです。しかし、どうも頭に入ってきてくれないんですね。
この記事を書く少し前に仏教知識「帰三宝偈」(近日公開予定)を書いていました。これを書いたことで中身の理解が深まり、お勤めするときに意味の一部が頭に浮かんでくるようになりました。勉強の効果は素晴らしいですね。しかし「帰三宝偈」が暗唱できるようにはなっていません……。「まだ勉強が足りない」と言われれば返す言葉もありませんが、やはり暗記するためには「暗記を目的とした努力」が必要じゃないかなと思います。
古代インドでの口伝
お経の暗記といえば、古代インドでは丸暗記されていたようです。釈尊の死後、その教えを残し伝えていくために弟子たちが集まって内容をまとめたのがお経の始まりです。当初は口頭で伝えられており、文字に記されるようになったのは釈尊の死後300-400年が経過してからだといわれています(※1)。昔のインドの方はとても暗記能力に長けていたようです。
私からすればそんな大事な内容を文字に書き記さないなんてことは考えられないのですが、昔のインドでは書き写した方がかえって間違えやすく、記憶した方が確かだと考えられていたようです(※2)。現代の我々とは考え方がまるで違いますね。
文明の利器
さて、暗記能力の劣る私にも助けとなる便利なものがあります。紙や鉛筆からパソコン・スマホ等に至るまで、情報を記録しておくために現代ではさまざまな道具を使うことができます。自分の代わりに道具に記憶してもらうわけですね。
これはこの「真宗の本棚」を作った動機の一つにもなっています。必要に応じてスマホ等を使い、「真宗の本棚」を開いていつでも知識の確認ができます。ただし情報の引き出し方は知っておく必要がありますね。索引を使ったり、記事検索機能を使ったりする必要があります。
覚えることのメリット
というわけで、私が覚えられないことの言い訳として「本を開けば書いてあるから大丈夫」「辞書を丸暗記する必要はないが、引き方を知っておく必要はある」ということを書かせていただきました。
とはいえ覚えることには大きなメリットがあります。答えがとっさに出てこないと困る場面もあるからです。たとえば門信徒の方からご質問をいただいた際に毎回「また調べておきます」では不便ですね。また、立ったままお勤めをする際などに経本を持ちづらい場面もあります。その際には覚えておいた方が当然便利になります。まあ、結局私は覚えるための努力をせず自然に任せてしまっている(そして暗記できていない)のですが……。
暗記とは別に、勉強は必要
ここまでだらだらと言い訳を書いてきたように、お経の暗記はするに越したことはないけれどあまり積極的にはなれないというのが本音です。もちろん内容の理解を深めていくことは大事ですからそちらは頑張っていきたいと思っています。浄土真宗は他力によって救われていく教えであり、浄土への往生成仏に自らの力は役に立たないと考えるわけですが、当然ながらこれは勉学を怠っていいということではありません。
註釈
- ※1 釈尊滅後、数百年後に教えが文字化された
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釈尊の説かれた教法と律とは、数百年間は所謂口承であり、文字に書き記されることはなかった。聖典の口頭伝承は、インドの伝統に基づくものであった。文字として書写されるようになるのは、仏滅後三百年から四百年を経過してからのことである。南伝仏教の伝承によれば、紀元前一世紀頃にスリランカ(セイロン島)を治めていたヴァッタガーマニー・アバヤ王(紀元前八九~七七在位)の時代に行われた第四結集においてであったとされる。
(『浄土真宗聖典全書 一 三経七祖篇』P.3
「大蔵経について 解説」より) - ※2 インド人が口伝にこだわる理由
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現代のわたしたちの感覚からすると、文字にして記録するほうが正確に伝わるように思われますが、古代インドの人々の記憶力には驚嘆するものがあります。一度確定すると、わたしたちの想像をはるかに超えて、おどろくほど正確に伝承されるのです。それは、いまだに太古からの聖典であるヴェーダ聖典が、バラモンたちによって記憶され伝えられていることからもたしかめられます。バラモンたちは文字化することは聖典にたいする冒涜であるとも考えていました。
むしろ書き写すほうが、文字をまちがえたり、数行とばしたりするという誤りがおこりがちです。書いた葉や紙が虫に食べられるということもあります。それでも、紀元前一世紀には文字に書き写されました。
(『ゴータマ・ブッダ』P.131-132より)
参考文献
[2] 『ゴータマ・ブッダ』(羽矢辰夫 春秋社 1999年)