本願寺の軌跡
浄土真宗の礎を築かれたのは親鸞聖人であるが聖人が生きた時代には本願寺という寺院はまだ無く、滅後に親鸞廟堂(大谷廟堂)(※1)という堂から本願寺に発展する。現在この本願寺は六条堀川、堀川正面と呼ばれる地にある。現在の場所に定まるまで何度も寺基(寺を建立する場所)移転をした。
- ※1 親鸞廟堂
- 親鸞の墓所に作られた庵。
① 1272年(文永9)鳥辺野(鳥部野)の北大谷から吉水の北に移る。その後に拡大、破壊、復旧を経て足利尊氏の戦乱で焼失する(詳しくは仏教知識「覚如②」参照)。1438年(永享10)この頃に御影堂・阿弥陀堂の両堂が整う。1465年(寛正6) 大谷本願寺は延暦寺西塔の衆徒によって破却された(寛正の法難)。この後寺基は定まらず、京都定法寺、壬生、室町、金宝寺、近江金森、栗本、堅田、大津近松坊舎など転々とする。
② 1471年(文明3)七月二十七日、本願寺第8代蓮如は越前吉崎(あわら市)に坊舎を建立する。ここを中心にしばらく布教活動をするが1474年(文明6)に坊舎は焼失する。その後復興するが越前吉崎を退去し、若狭小浜から出口(枚方市)へ移る。(詳しくは仏教知識「蓮如」参照)
③ 1478年(文明10)一月二十九日、京都の山科に坊舎を作り始める。二年後の三月二十八日御影堂が棟上げされ1481年(文明13)四月二十八日阿弥陀堂が完成する。それまで大津近松に安置していた宗祖影像を山科に移す。1532年(天文1)八月二十四日、六角定頼、法華宗徒等によって山科本願寺が焼かれる。宗祖影像は宇治田原を経て翌年に大坂石山へ。
④1496年(明応5)蓮如が大坂に石山坊舎の建設を始め、翌年に完成する。その後、山科本願寺が焼失したため石山に寺基が移される。本願寺の勢いはこの頃が最盛期であり、多くの門徒と共に寺内町を形成した。やがて織田信長と争い、結果石山を退去することになる(詳しくはコラム「戦国本願寺」全巻参照)。
⑤1580年(天正8)四月九日、石山から和歌山の鷺の森に移る。その後1583年(天正11)七月四日、和泉貝塚へ移り1585年(天正13)八月三十日、豊臣秀吉より大坂天満の地を寄進され移る。(詳しくはコラム「戦国本願寺 第十一章 石山合戦からその後」参照)
⑥天満の両堂が完成して間もなく、豊臣秀吉より本願寺の京都移転命令が発せられる。秀吉は現在の本願寺の場所である七条坊門堀川の地を寄進する。1591年(天正19)京都堀川へ寺基が移される。(詳しくはコラム「戦国本願寺 第十一章 石山合戦からその後」参照)
これは私が箇条書きしたものであるが、大きく分けて六回の大移転。細かく分けると二十回近くの移動かつ度重なる破壊や焼失など、宗祖滅後の750年以上はその長い時間に比例して深い歴史がある。恐ろしいことに昔の人は気に入らないことがあったらすぐに襲撃するものであると印象を持った。また火や落雷に弱く、一度火災が発生すると手の着けように無いどうしようもない事態になるものだとあらためて考えた。これに関しては現在も同じことがいえる。失火だけではなく漏電など細心の注意を払わなければならない。本願寺が現在の場所になり今年2021年でちょうど430年。個人の願いとして寺基はこのままで存在して欲しい。願わくは末永く本願寺が多くの人に参拝される寺院として変わらぬ姿でありつつ新しい世代に受け継いで欲しい。
参考文献
[2] 『図録 蓮如上人余芳』(本願寺史料研究所 本願寺出版社 1998年)
[3] 『図録 顕如上人余芳』(本願寺史料研究所 本願寺出版社 1990年)
[4] 『浄土真宗本願寺派 法式規範(改訂版)』(浄土真宗本願寺派 勤式指導所 本願寺出版社 1999年)