戦国本願寺 第十一章 石山合戦からその後
1580年(天正8)三月五日、本願寺十一代顕如は石山本願寺を明け渡すことを決意した。和睦という名目であるが、事実上の敗退であった。本願寺内部では顕如の決定に賛同できない者もいた。とくに雑賀衆は1570年(元亀1)最初の織田信長との合戦から本願寺を守る一心で高い戦闘力を発揮し、常に最前線で活躍していた。本願寺を明け渡せば自分たちの約十年間の犠牲は全て無駄になってしまう。しかし顕如としてはこれ以上の戦いは不可能であった。信長は長島、越前、雑賀の門徒を虐殺し、顕如と連携していた有力な戦国武将の浅井長政、朝倉義景、武田信玄、上杉謙信、毛利輝元も攻略していった。また信長は1571年(元亀2)に比叡山を焼き討ちしており、顕如としてはそのことが自分たちの身にまた降りかかることも恐れたのではないか。
七月の盆前に石山を退去する約束であったが、顕如は四月九日に石山本願寺を出発し、鷺森(和歌山市)へと移った。顕如が去った石山本願寺では顕如の長男である教如を新門主として信長と戦うことを決意した。顕如は徹底抗戦を主張する教如を義絶した。七月十三日、石山を守る二つの支城が陥落して教如は明け渡しに応じた。翌日から八月二日まで交渉を行い、ついに退去が正式に決まった。教如が本願寺を出て間もなく出火した。この時代の明け渡しというものは建物やそれに伴う設備をそのまま渡すことが慣例であるが、これは教如の最後の抵抗であった。本願寺は三日間燃えて全て灰になった。時限発火を用いた説と自然火災が起こった説の二説在るが、本当のところはわかっていない。いずれにしろ、こうして石山は滅亡し、本願寺は鷺森に移転した。
鷺森は紀州門徒の中心地であり、先の石山合戦で活躍した雑賀衆の拠点でもあったため、この地に移った。この頃には、本願寺と信長は友好的な関係を築いていた。1581年(天正9)三月、信長はそれまで禁じていた門徒の本願寺への参詣を解禁した。
顕如は内外的に平和な姿勢を示し社会的信頼、本願寺の護持に努めていた。この頃1582年(天正10)6月2日本能寺の変が起こる。一方では雑賀衆で内紛が起こる。顕如はこの対立を抑えることが出来ず、根来寺(岩出市)や岸和田城(岸和田市)を巻き込んだ。1583年(天正11)七月、三年数ヶ月で鷺森を撤退して貝塚(貝塚市)へと本願寺を移した。これは雑賀衆の争いと本願寺が無関係であることのアピールであった。1585年(天正13)五月、顕如は羽柴秀吉から大坂天満の場所を与えられたため天満本願寺を建立した。貝塚は一年十ヶ月程の短い期間であった。
こうして本願寺は天満に移ったが、石山合戦後の本願寺内統制は充分ではなかった。だが一致団結して1585年(天正13)八月に阿弥陀堂を整え、1586年(天正14)八月には御影堂が完成した。秀吉は本願寺に対して友好的な姿勢を構えた。もう争いたくないというのも本音のひとつであっただろう。天満本願寺は元にあった石山本願寺を越す広大な土地であった。また1586年(天正14)から1589年(天正17)にかけて計三百石寄進の他、大谷廟地(京都市)(現大谷本廟)の地子銭を免除した。表面的には秀吉の友好的配慮であるが、本願寺は秀吉の権力支配に引き込まれていった。1590年(天正18)一月、秀吉は本願寺に対して京都へ移るように命じた。本願寺としては五年かけてようやく天満本願寺の基盤が出来た頃であった。迷惑極まりない話であったが、関白となった秀吉の命令を拒否することは出来なかった。秀吉が京都に移るように命じた理由の一つはこの時、京都の市街地を大きく整備する計画があった。都に本願寺を置く構えをみせた秀吉。これは本願寺との友好を示すものであった。さらに年内移転や下鳥羽・下淀(伏見区)より北であれば好きに選定しても良い、など命令の内容は寛大であった。秀吉は1591年(天正19)正月、顕如が希望する六条堀川の地に本願寺を建てることを認めた。顕如は同年八月五日京都に本願寺を構えた。
顕如はこの時49歳、亡くなる一年前であった。顕如はそもそも体が丈夫ではなかったと伝えられている。石山合戦から転々と移る本願寺を導き心身が困憊していたであろう。鷺森に移った30代後半には病弱になっていた。1592年(天正20)十一月二十日脳卒中で倒れ、いったんは持ち直すが十一月二十四日に亡くなる。その後、1598年(慶長3)秀吉が亡くなり、1603年(慶長8)江戸時代が始まる。顕如はまさに戦国時代の本願寺を護持するために生き抜いた人物であった。