戦国本願寺 終章

【せんごくほんがんじ しゅうしょう】

先の石山本願寺を織田信長おだのぶながから守る攻防戦は約十一年という長い月日をついやした。それを支えたのは戦国時代特有の信仰心の強さであり、常にいくさえない時代背景であろうか。これは現代の考えではとても想像のつかない世界である。信長にとって信仰は数百年続いた武士社会の脅威きょういになるととらえていた。みずからの家来けらい把握はあくしていても、家来一人一人の信仰まで掌握しょうあくできなかった。本願寺八代蓮如れんにょ以後の本願寺教団は勢いを増す一方で、領主を襲う一揆いっきにまで発展したことから、信長に限らず本願寺と対立する戦国武将からみても目障めざわりな存在になっていたのであろう。一方、顕如けんにょ宗主しゅうしゅとする本願寺も蓮如が作った巨大寺院を守っていく使命があった。石山本願寺をすんなり退去することは顕如にとっては無理難題であった。しかし蓮如の教えを忠実に守っていたら歴史はどうなっていたであろうか。

蓮如が門徒に対して作成した御文章ごぶんしょうという手紙の四帖目よんじょうめ第十五通だいじゅうごつうに「大坂おおざか建立こんりゅうしょう」というものがある。山科やましな本願寺で亡くなる一年前の八十四歳の時に書かれた内容の中に

またいささかも世間せけんひとなんども遍執へんじゅうのやからもあり、むつかしき題目だいもくなんども出来しゅっらいあらんときは、すみやかにこの在所ざいしょにおいて執心しゅうしんのこころをやめて、退出たいしゅつすべきものなり。これによりて、いよいよ貴賤きせん道俗どうぞくをえらばず、金剛こんごう堅固けんご信心しんじん決定けつじょうせしめんこと、まことに弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんにあひかなひ、べっしては聖人しょうにん(親鸞)の御本意ごほんいにたりぬべきものか。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.1188より)

 

もし少しでもとらわれをもって、無理難題をいうような人があるようなら、この地にとどまろうとは思わずにすぐに離れるべきであります。僧侶そうりょであるか俗人ぞくじんであるかなどに関係なく、信心を決定することこそが、阿弥陀如来や、ことに親鸞しんらん聖人しょうにんのご本意に沿うものでありましょう。

(『御文章 ひらがな版 -拝読のために-』P.142-143 より )

信長が初めて本願寺を攻撃した1570年(元亀げんき1)より70年以上前に蓮如は攻守に優れた土地である石山を狙う者がいたらすみやかに明け渡すべきであり、この地に限らず何処どこでどんな人であろうが念仏を申し浄土に参ることが大事であるとつづっていた。たらればの話であるが信長の性格なら、すみやかに明け渡せば山科に換地かんちするという和睦わぼく案を出しており(コラム「戦国本願寺 第二章 石山本願寺を守る者」参照)、それを受け入れていれば全く違った歴史になっていたのでは?(この戦争自体がなかったのでは、たくさんの人々が亡くなることもなかったのでは)と思うことである。そして現在の大阪は浄土真宗本願寺派の寺院が日本で一番多く存在する。それはこの時代に起こった出来事と大きく関わっているものと私は考える。蓮如の時代に諸国から大勢の門徒が集まり、巨大な石山本願寺を建設するために力を合わせ、領主に支配されない自分たちの寺内町じないちょうを形成するために尽力じんりょくした。こうした様々な縁があった。いずれにしろ、石山本願寺が燃え、後に豊臣とよとみ秀吉ひでよしが大坂城を落成らくせいさせ、徳川とくがわ家康いえやすがさらに大坂城を一から造り変え、今日の大阪城として健在している。諸行無常しょぎょうむじょうである。

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