戦国本願寺 第二章 石山本願寺を守る者
本願寺は教団護持のため1570年(元亀1)の春に武器を持つことを決定した。この年の二月二十六日、教如が十三歳で得度をして嗣法となった。お祝いムードの最中、京都所司代村井貞勝と不破河内守光治が本願寺に訪れた。内容は西国のおさえとして、石山本願寺を足利義昭に明け渡すこと。明け渡した際には旧地の山科を換地として与えるとのこと。信長の目的は最大の脅威である門徒を統率する本願寺の弱体化であった。
当時の諸国門徒は石山をまさに「聖地」としてみていた。当然ながら、新幹線やバスがない時代の門徒たちは、石山に参ることを生涯の念願とした。当時の戦国大名は門徒に年貢や課役の強制は難しく、その存在をみとめ、共存しなければ領国支配ができない環境であった。領主の家来ですら、誰が門徒なのかはわからない状況だった。諸国の末寺を支えている門徒衆は、石山本願寺を大きな後ろ盾とした。門徒同士で助け合い、領主の干渉をはねのけ、一定の地域を寺内として治外法権を保った。地上の安楽が寺内であり本願寺が大坂に在ったからこそ守らなければならなかった。
さて、信長は1570年(元亀1)八月二十六日に三万の兵を率い、加えて三万の畿内衆と合流して天王寺に本陣を構えた。二十八日に野田、福島を焼き払い天満森、川口、神崎、上難波、下難波に布陣した。九月三日に足利義昭も大坂へ向かった。本願寺は高楼の上から野田、福島を攻めた織田勢を監視していた。九月五日、顕如は紀伊門徒雑賀衆に檄文を送った。この雑賀衆は鉄砲の扱いに長けた集団であったため、高い軍事力を誇っていた。また報酬次第でどこにでも加勢する傭兵集団でもあった。しかし門徒としての誇りは高く、本願寺のピンチを知ると損得抜きで一致団結した。九月十二日、信長は海老江に本陣を進めた。この日の夜明けから信長は野田、福島の城を攻撃開始した。本願寺はこの激戦の最中に近江川川口と楼の岸に砦の建設を強行した。野田福島の戦いは膠着化し織田勢は石山にむかって鉄砲を乱射した。本願寺は反撃として砦の矢倉の上から下へと撃ち、織田軍は頭上に散弾を浴び死傷者を増やして退却した。
野田、福島の城は瀬戸内海からの船の往来があり、物資補給に適していた。そこで本願寺は中国地方の大名を味方につけようとした。くわえて、浅井、朝倉、武田を巻き込んで京都で決しようと。また信長の力を試すため、守口の稲田を刈り検見をして、もし襲撃したら一戦するとのことが決まった。
九月十三日は全ての川が逆流する程の暴風雨だった。十四日の朝、信長勢の雑賀衆、紀伊湯川衆の門徒兵が寝返り石山に入った。前日の暴風雨の影響で気温が下がり濃霧が発生した。早朝に石山から守口に稲刈りをする門徒兵二千と足軽五百、護衛の雑賀鉄砲衆三千が玉造門を出発した。守口に到着する頃には霧も晴れ作業を進めた。刈った稲は水路をつたい石山へ。近江川対岸の城の佐々成政がこの光景を目の当たりにして信長に進言。直ちに攻撃へ。わずか二千の小勢と思ったが側面から三千丁の鉄砲の発射音が轟いた。鉄砲衆を目掛けて切り込んできたので雑賀衆は槍を持って応戦する。信長勢にも根来衆、尾張衆の千を越える鉄砲衆がいたが、雑賀衆に圧倒された。一万を超える信長軍は敗戦濃厚となった。その時、石山本願寺から数十の梵鐘が鳴った。南無阿弥陀仏の旗を持ち武装した門徒が襲いかかってきた。その中には女性もいたという。信長軍は三千の死者を出し、負傷者も計り知れなかった。信長は海老江から天満森の本陣へ。その本陣も危うくなり川口の付城に移った。本願寺は勝利後、石山に籠城して来る敵に鉄砲を撃ちつけるだけであった。同月十七日には、本願寺は発砲を停止していた。
信長は顕如が浅井、朝倉とも呼応していると睨み、足利義昭に朝廷の権力を使わせた。権大納言である山科言継を勅使とし、停戦の勅書を顕如に送ることにした。しかし、勅使が九月二十日の昼に大坂へ発とうとしたその時に事態が急展開した。