戦国本願寺 第二章 石山本願寺を守る者

【せんごくほんがんじ だい02しょう いしやまほんがんじをまもるもの】
[戦国本願寺]
by 檀特 諒行 (祐貞寺)
2019/07/01(2019/11/29 更新)

本願寺は教団護持ごじのため1570年(元亀げんき1)の春に武器を持つことを決定した。この年の二月二十六日、教如きょうにょが十三歳で得度とくどをして嗣法しほうとなった。お祝いムードの最中、京都所司代しょしだい村井貞勝さだかつ不破ふわ河内守かわちのかみ光治みつはるが本願寺に訪れた。内容は西国のおさえとして、石山本願寺を足利あしかが義昭よしあきに明け渡すこと。明け渡した際には旧地の山科やましなかんとして与えるとのこと。信長の目的は最大の脅威きょういである門徒を統率とうそつする本願寺の弱体化であった。

当時の諸国門徒は石山をまさに「聖地」としてみていた。当然ながら、新幹線やバスがない時代の門徒たちは、石山に参ることを生涯の念願とした。当時の戦国大名は門徒に年貢ねんぐ課役かえきの強制は難しく、その存在をみとめ、共存しなければ領国支配ができない環境であった。領主の家来ですら、誰が門徒なのかはわからない状況だった。諸国の末寺まつじを支えている門徒しゅうは、石山本願寺を大きな後ろ盾とした。門徒同士で助け合い、領主の干渉をはねのけ、一定の地域を寺内として治外ちがい法権ほうけんを保った。地上の安楽あんらくが寺内であり本願寺が大坂に在ったからこそ守らなければならなかった。

さて、信長は1570年(元亀1)八月二十六日に三万の兵を率い、加えて三万の畿内きないしゅうと合流して天王寺に本陣を構えた。二十八日に野田、福島を焼き払い天満てんまもり、川口、神崎かんざきかみ難波なんばしも難波なんば布陣ふじんした。九月三日に足利義昭も大坂へ向かった。本願寺は高楼こうろうの上から野田、福島を攻めた織田勢を監視していた。九月五日、顕如けんにょ紀伊きい門徒雑賀さいかしゅう檄文げきぶんを送った。この雑賀衆は鉄砲の扱いにけた集団であったため、高い軍事力を誇っていた。また報酬次第でどこにでも加勢する傭兵ようへい集団でもあった。しかし門徒としての誇りは高く、本願寺のピンチを知ると損得抜きで一致団結した。九月十二日、信長は海老江えびえに本陣を進めた。この日の夜明けから信長は野田、福島の城を攻撃開始した。本願寺はこの激戦の最中に近江おうみがわ川口かこうと楼の岸に砦の建設を強行した。野田福島の戦いは膠着こうちゃくし織田勢は石山にむかって鉄砲を乱射した。本願寺は反撃として砦の矢倉の上から下へと撃ち、織田軍は頭上に散弾さんだんを浴び死傷者を増やして退却した。

野田、福島の城は瀬戸内海からの船の往来があり、物資補給に適していた。そこで本願寺は中国地方の大名を味方につけようとした。くわえて、浅井、朝倉、武田を巻き込んで京都で決しようと。また信長の力を試すため、守口の稲田を刈り検見けみをして、もし襲撃したら一戦するとのことが決まった。

九月十三日は全ての川が逆流する程の暴風雨だった。十四日の朝、信長勢の雑賀衆、紀伊湯川ゆかわ衆の門徒兵が寝返り石山に入った。前日の暴風雨の影響で気温が下がり濃霧のうむが発生した。早朝に石山から守口に稲刈りをする門徒兵二千と足軽五百、護衛の雑賀鉄砲衆三千が玉造たまつくり門を出発した。守口に到着する頃には霧も晴れ作業を進めた。刈った稲は水路をつたい石山へ。近江川対岸の城の佐々さっさなりまさがこの光景をの当たりにして信長に進言しんげん。直ちに攻撃へ。わずか二千の小勢と思ったが側面から三千丁の鉄砲の発射音がとどろいた。鉄砲衆を目掛けて切り込んできたので雑賀衆はやりを持って応戦する。信長勢にも根来ねごろしゅう尾張おわりしゅうの千を越える鉄砲衆がいたが、雑賀衆に圧倒された。一万を超える信長軍は敗戦濃厚となった。その時、石山本願寺から数十の梵鐘ぼんしょうが鳴った。南無阿弥陀仏の旗を持ち武装した門徒が襲いかかってきた。その中には女性もいたという。信長軍は三千の死者を出し、負傷者も計り知れなかった。信長は海老江から天満てんまもりの本陣へ。その本陣も危うくなり川口の付城つけのしろに移った。本願寺は勝利後、石山に籠城ろうじょうして来る敵に鉄砲を撃ちつけるだけであった。同月十七日には、本願寺は発砲を停止していた。

信長は顕如が浅井、朝倉とも呼応しているとにらみ、足利義昭に朝廷の権力を使わせた。ごん大納言だいなごんである山科言継ときつぐ勅使ちょくしとし、停戦の勅書ちょくしょを顕如に送ることにした。しかし、勅使が九月二十日の昼に大坂へとうとしたその時に事態が急展開した。

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