戦国本願寺 第三章 長島の戦い(1)

【せんごくほんがんじ だい03しょう ながしまのたたかい 1】

浅井、朝倉軍が1570年(元亀げんき1)九月十九日に比叡ひえいつじ八王子はちおうじから宇佐城を攻め、援軍として応戦した信長の弟である織田信治のぶはるを討ちとった。朝廷の勅使ちょくしであった山科ときつぐは浅井、朝倉軍が坂本から大津、山科、伏見、鳥羽とばに進出している情報を得て本願寺に行くことを断念した。信長はただちに明智光秀、村井貞勝さだかつ、柴田勝家を京都に急行させた。二十二日の夜、信長は天満てんまもりで五畿内の兵を解散させて美濃、尾張、伊勢、三河、近江の兵を率いて京都に引き上げることにした。

退陣となれば逃げる敵をさらに追い込むことは戦の常識であった。同時に殿しんがりを固めるのも常套手段。顕如けんにょは石山を仏法擁護おうごの城であるから、攻めてくる敵は戦うが兵を引き上げて帰る者に追い打ちをかける事は認めなかった。

九月二十四日に信長は三万の兵でしも坂本に到着した。浅井、朝倉軍はこの間に比叡山まで後退した。信長は北国衆ほっこくしゅうの旗が蜂ヶ峰、青山、壺笠山一帯に広がるのをみて三万の敵を殲滅せんめつするには倍以上の兵力がいると考えた。

一方、九月二十五日に顕如は石山で先述の合戦で戦死した者たちの法要を勤修ごんしゅした。これは味方の雑賀さいがしゅうに限らず敵兵の戦没者に対する追悼でもあった。同日信長は佐久間信盛、稲葉一鉄に延暦寺の高僧十人を本陣に連れてくるよう厳命した。信長は様々な譲歩策を延暦寺側に促したが、十人は首を縦に振らなかった。延暦寺側が曖昧な反応で席を立とうとしたその時、信長の堪忍袋の緒が切れて焼き払うことを宣言した。

延暦寺と膠着こうちゃく状態のこの頃、京都では一揆いっきが起こった。土一揆は高利貸しや酒屋等の富裕層を襲い金品を強奪する。これを動かしていた人物は三好みよし三人衆であった。大坂の三好党は四月末に阿波の篠原しのはら長房ながふさから五千人の増援を得て河内の織田側の城を攻めた。十月二十二日、三好党は山城国まき城を占領した。これにより、信長が窮地に陥った。信長は洛中を放棄して東山一帯に陣を構えた。何も動きをみせない朝倉、浅井軍に挑戦状を送りつけたが無視された。信長は為すすべもなく比叡山で冬を迎えた。

十月頃、顕如は門徒の蜂起ほうきを促す書状を五畿内、近江、伊勢、四国の門徒に送った。内容は「信長が九月に石山を攻め、法灯ほうとう護持のため決起して石山を守った。今後もこのような時勢が続くであろう。その時は門徒一同で徹底抗戦をしなければならない。」との趣旨であった。これに京都と岐阜の間にいる門徒たち、湖東の四十九院の門徒五千、湖南三千、北近江十ヶ寺門徒三千が応じ、織田の砦を攻撃した。伊勢は長島の願証がんしょうが立ち上がった。この願証寺は蓮如れんにょの子、蓮淳れんじゅんによって開かれ当時十八万石の石高を持つ巨大な寺院であった。ここもまた信長の圧力を受けていた。長島門徒は漁師や大工といった技術者が多く、紀州からの鉄砲衆も居て戦力があった。長島門徒の開戦が決定すると門徒たちは十一月半ばに信長の弟、織田のぶおきが居る尾張小木江こきえ城を攻撃した。この時、信興は六百人の兵で守っていた。信興は桑名城に応援を求めたが桑名城もまた門徒に包囲されていた。長島門徒は小木江城に千五百人ほどで押し寄せ鉄砲を撃つが城からは反応はなかった。いったん長島に退いて十一月二十一日長島門徒は五千の兵で小木江城を襲った。信興は城内で切腹をして小木江城に六字名号の旗が上がった。門徒たちは小木江から桑名へとターゲットを変更した。信長は信興の死を知ると落涙らくるいし、顕如は信興に対して法要を勤修した。信長は窮地から脱却するために、浅井・朝倉軍との和睦わぼくを考え、足利義昭を通して朝廷へはたらきかけた。十月三十日、しょう蓮院れんいん門跡もんぜきそん朝法ちょうほう親王しんのうは顕如に促した。それを承け顕如は十一月十三日に和睦を受け入れる文書を青蓮院に送った。小木江城のピンチを知りつつも比叡山麓で何も出来なかった信長は復讐を決意した。

十一月二十五日、信長は坂井右近うこん政尚まさひさを大将とした千人余りの決死隊を作り、翌日近江堅田かたたにある朝倉の小荷駄こにだかたが陣所とする寺院を襲撃し成功する。堅田を奪われると糧道を断つことになるので朝倉勢は五千の兵を率いるが坂井勢の猛攻に圧倒され、十一月末に講和に応じる構えをとった。

十二月十四日信長は比叡から瀬田に軍を退いた。浅井、朝倉軍は講和に従い織田から人質を取り十五日には比叡山を下山し帰国した。

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