戦国本願寺 第四章 比叡山焼き討ち
1571年(元亀2)一月二日信長は朱印状を発して越前、京都、大坂の道を完全封鎖した。浅井、本願寺門徒、延暦寺の物資を止める目的であった。同時に淀、鳥羽、六地蔵に関所を設け石山への参詣も禁じた。
二月二十四日に佐和山城(彦根市)を攻略する。これを機に近江、京都、大坂で大きな動きが無いとみた信長は、信興の弔い合戦のために長島へ攻める。五月十日、佐久間信盛ら約一万、柴田勝家、氏家直元ら約二万、信長本陣約二万の計五万を越える大軍を三手に分け出陣した。大雨の十一日早朝から攻めた。長島は川に挟まれた地形でまるで要塞だ。川は濁流して攻略は難攻となった。十二日も暴風雨であったため、信長は撤退を決めた。願証寺の門徒は引き上げる信長軍をみると追撃の手を緩めなかった。伏兵を随所に潜伏させた。十三日、柴田勝家が先頭で退却の際に無数の鉄砲玉が降り注いだ。陸、川、止めどない猛攻で太ももを負傷しながらの撤退であった。柴田勝家は氏家直元と先手を交代し終日の戦いとなった。氏家はここで戦死する。十四日早朝に長島門徒は願証寺へと帰る。門徒側も五万を越える兵力だったという。本願寺はこの勝利で門徒の士気が高まった。石山本願寺の家老たちは北近江門徒を奮起させ、浅井と協力し信長から石山を守るための教書を顕如に請うた。これにより、約二万の門徒が浅井軍に加勢して信長の北上を阻止しようと団結した。また、浅井長政をはじめ、朝倉義景、武田信玄、毛利輝元、長宗我部元親、紀伊雑賀衆などが信長と構える姿勢をみせた。
近江一帯で勃発する一向一揆を抑えるために京都、美濃の交通を再度確保する目的で信長は八月十七日に三万の兵を率いて出陣した。武田信玄が凄まじい勢いで三河へ進行してきたため、岐阜城へ攻める可能性が出たために浅井長政と一向一揆を潰す必要があった。八月二十六日、横山城(長浜市)から信長は小谷城下の集落や木之本、余呉に攻め入り、略奪したり焼き払ったりしたが浅井はこれに応じなかった。八月二十八日横山城から佐和山城へ。一方で別部隊は南近江の一向一揆の城砦を悉く潰していく。九月十日までこれが続いた。
九月十一日、信長は瀬田まで行き三井寺(園城寺)に入った。三井寺の園城寺は天台寺門宗(天台宗寺門派ともいわれる)の本山である。延暦寺の三門派とは犬猿の仲であった。この晩に総攻撃を開始する。夜が明ける頃には坂本の町を焼き払い、日吉大社も焼き尽くした。瞬く間に東塔、西塔も攻略し、民衆、僧侶を問わず坂本の地に住む者を殲滅した。これが九月十五日まで続いた。この四日間は晴れ間が続き乾燥していたため、燃えゆく堂塔から山火事が生じた。現代での天気予報で「東京からは富士山が見える快晴です。」といった事をしばしば聞くが距離にして100キロほど。大阪と比叡山は70キロほどなので石山本願寺からもこの比叡山の炎は見えたそうである。最高学府であった比叡山が焼き討ちに遭うという前代未聞を知った石山本願寺は、この次は間違いなく大坂で起こりうる事件だと確信した。こうして親鸞も若き頃修行を重ね、桓武天皇時代の年号、延暦からとった800年近くの歴史を持つ寺が灰となった。
信長は1572年(元亀3)の春頃、着々と近江の陸路を制圧し七月に小谷城を攻略するため出陣した。総攻撃の陣に驚いた浅井長政は朝倉義景に応援を求め二万の援軍を一乗谷から小谷城へ送った。小谷がやられれば越前は目前であった。応援に行った朝倉は信長の布陣を見て正攻法で行くよりも守備に徹した方がよいとみた。一方、信長も信玄が自国を東から攻め、畿内は不穏な空気であり、何よりも諸国門徒が顕如の一声でいつ蜂起するかわからない。事実、八月十八日河内の三好義継、八月二十八日松永久秀が裏切り京へ兵を動かした。信長は九月十六日小谷攻略を木下藤吉郎に任せ岐阜城に戻った。浜松城を守る徳川家康と連絡を取り、信玄の対策を取らなければならなかった。一方、木下藤吉郎らに攻められ、壊滅寸前の近江門徒衆も信玄が攻めなければ、近江は最悪の状況になると考えていた。十月三日、信玄は浅井父子に出陣したと密書を送った。三万を越える軍で甲斐を出発した。信玄の猛攻の末、二俣城(浜松市)まで攻略した。これにより信玄側に寝返った地侍が多数出て家康は窮地に立たされる。十二月二十二日、信玄は二万五千人の軍勢で浜松に迫りここも家康側を圧倒し西へと行く。三方ヶ原の戦いであった。
信玄は反信長勢に勝利の報告を送った。1573年(元亀4)一月十日顕如は信玄と連絡を取り合い三月十四日も越前、北近江、京都、畿内の反信長勢の動向を詳しく送った。三好義継、松永久秀といった有力大名や各地の地侍の反旗を翻した内容であった。さらに足利義昭も信長討伐へと踏み切った事も知らせた。この時点では信長は動かず様子をうかがっていた。