戦国本願寺 第五章 信長の反攻
1573年(元亀4)三月十四日、本願寺第十一代顕如は三好義継、松永久秀が本願寺に協力した旨を武田信玄に伝達した。畿内では信玄の圧勝説が流れた。同時に織田信長との友好を反故した武将も多数出た。足利義昭も信長討伐の意を信玄に知らせる。しかし、信長は信玄が駿河、美濃に侵略するとは考えていなかった。甲斐は地侍を中心とする集団で長期間所領を離れることが出来ないと見切っていた。皮肉にも信玄はこの頃に、命に関わる病に冒されていた。また、信長は義昭の不穏な動きも察知していた。義昭は政治を私利私欲で動かし、将軍としての責務に相応しくないと考えた幕府御供衆細川藤孝が義昭の動きを信長に知らせていた。
一月下旬に義昭が岐阜へ攻める知らせが伝わり、信長は和平を申し出る。これは将軍と武士の主従関係を尊重し、信長なりの武士道であった。和平を求められた義昭は勢いづき、ついに信長討伐の兵を集めた。これに対し信長は二月二十日岐阜城を出発し、四日後には義昭側の堅田、石山(大津)の砦を攻撃した。これを圧勝した信長は義昭にあらためて力を見せつけ、交渉の余地も残した。それでも義昭は、三好義継、松永久秀のカードを残し、本願寺、信玄、徳川家康でさえ味方につけようと企んでいた。三月八日、信長は二条城にて和睦の機会を設けたが義昭は交渉を拒否した。
一方、石山本願寺は厳しい状況であった。信長は三年前に門徒の通行を禁じ、昨年に南無阿弥陀仏の名号を所持している者は完全に交通を遮断した。そのため兵も糧も乏しくなっていた。顕如はこの頃に信玄の重篤を知った。また同時に信長も同じであった。信長は三月二十五日に一万の兵で京都の洛外に布陣した。戦が始まると睨んだ京の町衆は信長に上京は銀貨千三百、下京は八百を差し出したが信長はこれを拒否。兵糧や軍需品を手に入れるため下京は残し上京を焼き払うことにした。四月二日夜に決行し三日の昼には全てを焼き払った。そして信玄が四月十二日に甲斐に帰る道中で病死した。
信玄の死によって様々な戦況が一変した。信長は自分の敵が減り、信玄対策として家康を三河に守備させる必要もなくなった。義昭、朝倉義景、浅井長政たちは自分の身を自分で守らなければならない。石山本願寺もまた同じであった。朝倉がやられれば越中、加賀、越前の一向一揆の勢力の弱体化に繋がり、上杉謙信の対処もしなければならなかった。長島願証寺も美濃、三河の軍勢が勢いつくことは必至であった。顕如は信玄の大法要を勤修した。教如や顕如の次男で興正寺の顕尊らも参勤した。
信長は佐和山城(彦根市)の丹羽長秀に巨大軍船の建造を命じ、砲撃が可能な堅牢な巨船を作り七月五日に進水した。この二日前、宇治川の中州になっている槙島に義昭は防衛戦のため入城した。これを吉田神社の神主が信長に報告。直ぐさま大船で坂本へ。この信長の京への出陣は諸国から合わせ七、八万の大群になった。二条城を守備していた者は戦意喪失の降伏。七月十八日早朝から槙島を攻め、義昭は二歳の息子を人質にして降伏した。信長は松永久秀のように将軍殺しの汚名を着せられたくないので義昭を生かした。 七月二十一日信長は改元を朝廷に奏請し、七月二十八日に年号を天正に改めた。これは義昭が元亀と定めたとき信長が推したが無視された、いわくつきの年号であった。信長は岐阜へ帰還し、直ぐさま浅井、朝倉の討伐準備を行った。八月八日、小谷城の支城であった山本山城(長浜市)を以前から攻略していた羽柴秀吉の策もあり即座に降伏した。翌日には美濃、尾張から三万の軍で小谷方の月ヶ瀬城を攻略。八月十日越前の朝倉からの応援を絶つために小谷城北の山田山に全軍を展開。朝倉はこの遮断に困った。次いで大獄、丁野山を攻略し十三日に朝倉まであと一歩のところまで迫った。義景は戦術に乏しく逃げの一手を取ったとたんに皆、我先に逃げ出した。常に先陣にいる信長はこれを追う。南条の入り口である鉢伏城、木ノ芽城と次々に撤退を強いられた朝倉は武生まで後退し一乗寺館へと。親族の朝倉影鏡らの前で義景は自害しようとしたが、最後の一戦を決意する。丸岡にある越前僧兵の大軍がいた天台宗の豊原寺に立てこもることを考えた。しかし景鏡は反対して大野まで下がることを勧めた。戦に強い景鏡の作戦を呑んだ義景であった。だがこれは景鏡の裏切りの作戦であった。信長軍も大野へ入り同時に越前の門徒も一掃して進んできた。八月十九日夕方、景鏡は大野の六坊へ移転を義景に進言。ここまで来た二人の姫、姉の光姫、妹の四葩を逃がした。四葩は教如と婚約をしていた。義景はそこを頼りに石山本願寺へ逃がそうとしていた。翌朝、裏切った景鏡の知らせで信長軍の襲撃によって義景は戦死した。