戦国本願寺 第六章 浅井・朝倉亡き後

【せんごくほんがんじ だい06しょう あさいあさくらなきあと】

1573年(天正てんしょう1)八月二十六日、織田おだ信長のぶながは三千程しか兵がいない浅井あさい長政ながまさ討伐とうばつのため三万の軍で小谷おだにじょうへ。長政とは数年戦っていたが、朝倉あさくら義景よしかげとの争いのためで長政自身に恨みは無いということで小谷城の明け渡しを勧めたが、長政は受け入れなかった。この時点で長政は自らの死を覚悟した。二十八日午前十時、最後の降伏こうふく勧告かんこくに向かった不破ふわ河内守かわちのかみ光治みつはるは、長政からおいち(信長の妹)と三人の息女を預かった。そして信長は全軍攻撃の命を発した。信長は大軍で攻めたが、小谷城の特異な地形により攻めにくかったものの、三十日の午前十時に本丸を攻略した。長政は切腹した。

信長は九月四日佐和山さわやまじょう(彦根市)に戻り六日には岐阜ぎふじょうに帰った。三万の軍を帰郷ききょうさせずに、次は伊勢いせ長島ながしま願証寺がんしょうじを攻略しようと考えていた。浅井、朝倉が負けたことを知った本願寺は武器や兵糧ひょうろうを集め守りを固めていた。九月二十五日、願証寺からの使者が本願寺に入った。義景が撤退の際に逃がした教如と婚約中の四葩を長島で保護しているとのこと。ぐさま本願寺は使者を送り、四葩を本願寺に迎えるため長島へ。二万を超える長島の兵力に加え、三角州で守られた願証寺は攻守ともに高い精度を誇っていた。信長は九月二十四日岐阜を出て大垣おおがきから南進。北方から長島を攻める手立てをとった。また西から佐久間さくま信盛のぶもり羽柴はしば秀吉ひでよし丹羽にわ長秀ながひでたちは桑名くわな一向いっこう一揆いっきの砦を攻めた。柴田しばた勝家かついえ滝川たきがわ一益(いちます、かずます)も桑名の坂井さかいじょうを十月六日に陥落する。そして近くにあった近藤こんどうじょうも奪取した。十月八日信長は本陣を桑名のひがし別所べっしょに陣をおいた。願証寺攻略のための下準備を終えた信長は十月二十五日岐阜へ帰ろうとした。この時に願証寺鉄砲勢三千の火ぶたが切られ轟音ごうおんが響いた。この日は雨で信長側の火縄銃に火がつかず、地の利がある門徒勢は優位に戦況を進め、信長自身も命からがらの撤退となった。信長は陸海同時に攻め糧道りょうどうを遮断することを考えた。

十一月、信長は京都に滞在し、この間に三好みよし義継よしつぐを討伐した。これにより三好に荷担かたんしていた松永まつなが久秀ひさひで、松永久通ひさみつは屈服し大和やまと多聞山たもんやまじょうを明け渡した。信長は一向一揆とやり合うには将軍の力が必要と考え、堺のみなとにいた足利あしかが義昭よしあきに帰京を勧めたが義昭は拒否。

1574年(天正2)正月、岐阜城で年明けの祝宴を催した。信長はこの時に自らの馬廻うままわしゅうを呼び、塩漬けしてうるしで固めた朝倉義景、浅井あさい久政ひさまさ、浅井長政の首級しゅきゅうを置いた。家来は列を作りそれを拝見した。信長なりの裏切りに対する見せしめであった。さらに浅井、朝倉の戦利品である山盛りの刀などを家来に与えた。またこの年賀の席で明智あけち光秀みつひでを大和多聞山城在番ざいばんに命じた。光秀は畿内大名と本願寺の関係に詳しかった。義昭が使えないので光秀に畿内を重任した。この頃、武田たけだ信玄しんげんの四男であった武田勝頼かつよりが頭角を現した。正月二十七日、三万の軍でひがし美濃みのに入り明知あけち城(恵那えな市)を包囲した。信長は織田信忠のぶただとともに父子で現地に向かうが明知城も難所にあり大軍で進むことが難しかった。結局、武田の猛攻に屈した。

一方、浅井、朝倉亡き越前では越前えちぜん守護代しゅごだい桂田かつらだ長俊ながとしを倒し、一向一揆から援助を受けた富田とだ長秀ながひで(富田長繁ながしげ)は越前平定へいていを急いだ。しかし門徒勢は長秀を討ち越前を加賀同様に一揆持ちの国を作ろうとしていた。顕如けんにょから三代前の蓮如れんにょの時代、加賀門徒は三十万の門徒で富樫とがし政親まさちかを討ち門徒が支配する国を作った。この加賀門徒の力を借り、その精鋭たちは今庄いましょう、鯖江等に陣を置いた。五万を超える兵となるともはや戦意喪失であった。富田は越前えちぜん府中ふちゅうじょう(越前市)にたてこもったが、二月十四日加賀門徒に負けた。顕如は浅倉景鏡かげあきらが本願寺と密接な関係であった義景を裏切ったことから、景鏡を討伐とうばつするように命じた。景鏡は四月半ばに討たれた。こうして越前も門徒が支配する国となった。

三月十七日、信長は朝廷より京都きょうと所司代しょしだい村井むらい貞勝さだかつを通じ叙官じょかんを受けるために京都へ。信長は従三位じゅさんみ参議さんぎに叙官されたが、源氏の姓がないため征夷大将軍には届かなかった。これは勢いが増す信長に対しての精一杯の朝廷の対抗策であった。信長が将軍に就けば世の中がどうなるかわからなかった。義昭が意味をなさなくなったので朝廷との関係を深くする必要があった。この祝儀は公家くげ高家こうけ門跡もんぜき、諸宗派高僧など招かれた。信長は村井に顕如、教如も招待するように命じた。しかし本願寺は呼応しなかった。また将軍になれなかった鬱憤うっぷんであろうか、東大寺とうだいじ正倉院しょうそういんに保存されている天下一の香である蘭奢待らんじゃたい所望しょもうした。これを拝領したのは歴代将軍でも足利義政よしまさのみであった。結局、宮中は信長の要求を呑み二十六日に許可した。信長は五千の兵で奈良に入りこの香木を拝領した。

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