戦国本願寺 第七章 長島の戦い(2)

【せんごくほんがんじ だい7しょう ながしまのたたかい 2】

1574年(天正2)三月二十七日、織田信長おだのぶなが大和やまとに到着した。翌日、東大寺とうだいじ正倉院しょうそういんに安置された蘭奢待らんじゃたい一寸いっすん八分はちぶ(約5.4cm)を拝領はいりょうした。五千の軍を引き連れていたことを本願寺は把握していた。本願寺は石山に攻めるものだと思い攻撃の準備を整えた。四月三日、信長は多聞山たもんやまじょう(奈良市)から京都へ向かった。阿倍野あべの(大阪市阿倍野区)に着いた頃、本願寺側は三千人の兵で鉄砲を放った。信長は不意を突かれたが、大きな合戦になることなく終わり撤退した。本願寺は中之島にある織田の砦を奪取した。信長は小競り合いをするより本願寺の中枢を破壊する必要があると考えたためであった。また畿内の織田軍のなかにも多数の門徒がいた事実もある。

信長は六月に三度攻略を失敗した長島ながしま願証寺がんしょうじの討伐を諸国大名に発した。九万人の兵で陸海から包囲し兵糧ひょうろう、弾薬を遮断して攻めようと考えた。弟である織田信興のぶおきや信長の重臣を失い、仏法ぶっぽう擁護おうごの後ろ盾で男女問わず命がけで攻める門徒を殲滅することを誓った。七月十三日の早朝に九万という大軍は三手に分かれ岐阜城を出発した。願証寺五代顕忍けんにんは十四歳であった。願証寺門徒は陸海を封鎖され、自分たちを遙かに超える軍勢で襲われたが、三度の勝利をおさめてきた。この勝利は仏恩ぶっとん報謝ほうしゃ、念仏のちからだと信じ再びこの苦難を乗り切ろうとした。門徒は顕忍から得度を受け覚悟を決めた。しかし織田水軍の砲撃によって長島内の拠点を失った門徒勢は長島本坊へ退去した。信長とその嫡男ちゃくなん信忠のぶただは長島の中央部を攻略し長島内の南北を分断した。さすがに九万の軍で攻めたため長島勢は劣勢であった。信長は門徒の命乞いも許さず進軍した。信長は長島内にあるおお鳥居とりいじょうの老若男女を虐殺し、これを攻略。長島城北へ二キロの篠橋しのはしじょうもる千の門徒は信長に忠誠を誓い命乞いをした。信長はこれを許した。願証寺本陣に門徒たちを戻せば早く兵糧がつきるという考えであった。長島の門徒はまさに地獄絵図となり毎日死者を増やしていった。兵糧を断絶されたため餓死者が著しかった。九月二十九日、ついに願証寺は降伏した。戦国時代の習慣として大将が降伏し自害すればそれ以上危害を及ばすことはなかった。だが信長の願証寺への怒りは格別で、門徒が撤退するところを見計らい虐殺しようと待ち構えていた。この時に顕忍は銃弾を受け死亡した。これをみた門徒は最後の総攻撃を行い、信長の兄である織田信広のぶひろをはじめ信長軍の強兵を討ちとり逃げた。願証寺が崩壊し、残った二万の門徒は降伏を願い出たが、信長は火を放ち、火の外へ逃げる門徒をことごとく撃ち殺した。二万の死体の悪臭あくしゅうは長島の対岸まで届いた。こうして信長は因縁の長島願証寺を完全攻略して十月五日、岐阜城へと帰還した。信長は長島の次は越前門徒とにらんだが豪雪地帯もあって一先ずこのままにした。

天正三年(1575)三月、信長はこの年の秋には石山本願寺を攻撃することを考えた。信長は四月六日、十数万の兵で河内に向かった。三好みよしとうの本拠地である高屋たかやじょう羽曳野はびきの市)を攻めた。十二日に住吉すみよし(大阪市住吉区)、十三日は天王寺(大阪市天王寺区)に布陣した。十九日に三好党の新堀にいぼりじょう(堺市)に火を放って攻略した。これにより三好みよし康長やすながは信長に降伏した。四月二十一日、着々と河内かわちを攻略し本願寺側であった三好党に勝つと信長は京都へ戻った。顕如けんにょは北陸門徒に書状を送り、周辺の勢力図が一変し兵糧弾薬の補給が難しくなったことを伝えた。本願寺はいよいよ決戦かと思ったが信長は武田たけだ勝頼かつよりが三河を攻めていたため、対処をすべく四月二十七日に美濃みのへ帰還した。戦国時代の戦法を一変させた長篠ながしの合戦である。五月二十一日大敗した勝頼は甲府こうふへ逃げ帰った。

八月十二日、信長は越前門徒を討つために岐阜を総勢十万の兵で出発した。越前門徒の国は領主に縛られない国として独立に成功したが、本願寺からこの一揆で活躍した地元の門徒衆に対する功労は一切無かった。くわえて本願寺から送られてきた坊官は、以前の領主制度と大差はなかった。内部の統制はもろ羽柴はしば秀吉ひでよしが攻めると大混乱におちいった。長島と違い統制がないので越前一揆衆が崩れるのは、あっという間であった。越前の門徒衆の村は焼かれ大勢の死者を出した。その数は万人を超え首級しゅきゅうでは追いつかないので、信長軍は耳や鼻を取ることにした。これは何人殺したか把握する手段であった。こうして大量虐殺の結果、信長は越前を平定へいていした。

このような情勢から顕如は信長が越前を平定した後に和睦わぼくを申し出た。信長はこれに応じた。1576年(天正4)正月から安土あづち桃山ももやまじょうの建設が始まり、信長も時間が必要であった。この間に本願寺は徹底して守備を固めた。木津きづ難波なんば出城でじろを建設する動きは信長も察知していた。また四月に足利あしかが義昭よしあき上杉うえすぎ毛利もうりと共に信長討伐を企んでいたことも気がついていた。義昭は中国地方の毛利に、本願寺が陥落すれば次は毛利であると説き、本願寺の味方を促した。毛利も厳しい状況におかれていた。東から信長、西からは大友おおとも義鎮よししげが迫る。1569年(永禄12)、毛利は義昭の権限を使い大友義鎮と休戦を試みた。この時に信長とも関係をもった。信長も阿波あわの三好三人衆と戦うには毛利の力が欲しかった。

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