戦国本願寺 第八章 毛利の援軍

【せんごくほんがんじ だい08しょう もうりのえんぐん】

1573年(天正てんしょう1)織田おだ信長のぶなが足利あしかが義昭よしあきの室町幕府を滅ぼした後に毛利もうり輝元てるもと討伐とうばつを考えた。信長は播磨はりま備前びぜん備中びちゅうの反毛利軍に協力した。これを察知した毛利は信長との縁を絶ち、本願寺との関係を深めた。1575年(天正3)十一月、顕如けんにょは信長との和睦わぼくの一ヶ月後に、毛利軍に対し援軍の書状を送った。本願寺と上杉うえすぎ謙信けんしんとの関係や、淡路島の岩屋いわやに信長側の海賊が大坂への海上交通の遮断しゃだんになっている内容であった。また1576年(天正4)三月十一日、紀伊きい門徒もんとにも岩屋の海上交通の助けを求めた。信長は四月三日に石山本願寺を包囲中の明智あけち光秀みつひで細川ほそかわ藤孝ふじたかに本願寺周辺の麦をことごとく捨て寺内じない兵糧ひょうろうを断つことや、命乞いをした門徒は助けるよう本願寺の最前線に立て札を作らせ、内部分裂を計った。四月十四日、毛利水軍が海路から石山本願寺へ兵糧を運ぶ動きを察した信長は、休戦誓約を無視して先制攻撃をした。この時、本願寺は四万人の兵をようし、その戦力の中枢は雑賀さいか鉄砲てっぽうしゅうであった。鉄砲は三、四千ちょうといわれていた。信長勢は野田北部(大阪市福島区)に進出し淀川の通航を妨げた。森口もりぐち(守口市)、森河内もりかわち(東大阪市)、天王寺にも布陣し、へいかても増やすことを妨害した。これに対し本願寺は木津(大阪市浪速区)、東方のろうきし(大阪市中央区京橋前之町)、難波(大阪市中央区)の三拠点を絶対防衛ラインとして死守し、海上交通をなんとか保った。大阪湾から本願寺に物資を運ぶ重要な川として木津川の河口かこうに本願寺はとりでを設けていた。信長は木津、東の楼、難波を攻略したかったが、上手くいかない。この先制攻撃にあたる今宮口の合戦は失敗に終わった。木津、東の楼を攻略するため三津寺みつでら(大阪市中央区)を占領するよう命じた。五月三日、信長勢は六千の兵で三津寺を攻めた。雑賀衆の頭領とうりょうである鈴木すずき孫一まごいちは三津寺に近い三塚みつづかに二千の鉄砲衆と一万の門徒で待ち伏せた。信長勢はこの猛攻に耐えきれず、天王寺まで退いた。本願寺勢は天王寺付近まで押し寄せた。この日の昼すぎに、信長は戦況を把握し、直ちに大坂へ出陣した。布陣した天王寺はまだまだ守備に態勢が整っておらず、ここが陥落すれば畿内情勢が一気にひっくり返る可能性があった。五月五日、急行した信長は若江わかえじょう(東大阪市)までたどり着いたが肝心の足軽が集まらない。三千の兵で一万五千の本願寺勢がいる天王寺に攻撃をする決意をした。五月七日、若江城から南進して松虫まつむしづか(大阪市阿倍野区)に着くと一気に天王寺へと攻めた。本願寺勢は信長の援軍が到着するにはまだ時間がかかると算段していたため不意を突かれた形であった。門徒たちが必死に応戦をしている間に本願寺の主力戦隊雑賀衆の精鋭が信長に一斉射撃した。この時に信長の太ももに弾丸が命中した。信長は一旦、四天王寺へ退き弾丸を抜き、応急処置をすると直ぐさま前線へ戻った。この死闘は四時間にも及び、本願寺勢は本山に兵を退き、織田勢はこれを追う。結果は双方二千以上の死傷者を出した。退いた本願寺勢は守備に徹底し、出撃することはなかった。信長は六月五日に大坂を引き上げ、八日に安土桃山城に帰った。この頃、毛利輝元は兵糧を六百そう積み、三百艘の軍船で警備させて岩屋へ向かった。この情報は五月には信長の耳に入っており、淡路島の洲本すもと城主であった、安宅あたぎ信康のぶやすに毛利水軍の増援を阻止するよう命じていた。もともと本願寺側の立場であった安宅であったが1572年(元亀3)に信長に降伏して配下となっていた。本願寺は蓮如以降、瀬戸内海から香川、岡山、広島、山口、大分へと教線拡大に成功していた。現在もこの地域には大寺たいじが多く残されている。毛利水軍はこの門徒勢で結束している集団なので淡路一国だけではどうにもならない現状であった。合計九百艘の船団を見ているだけであった。七月十二日毛利水軍は岩屋から大阪湾に入り、南下して貝塚で雑賀衆と合流して十三日に木津川河口に着いた。織田水軍は先にこの場所で船団を張っていた。だが織田水軍は一部の海賊と海戦経験のとぼしい足軽集団であった。毛利水軍は村上むらかみ乃美のみといった瀬戸内歴戦の船団であったため力の差は歴然であった。結果は毛利水軍の大勝で織田水軍二千の兵は全滅した。毛利水軍は大阪湾を制圧して播磨の織田軍に圧力をかけた。信長はこれでは勝てないと思い、伊勢の海賊である九鬼くき嘉隆よしたかに鉄で出来た巨大な安宅船を作るよう命じた。誰に教えてもらうことなく鉄の船を世界で初めて作ろうとした。

1577年(天正5)二月九日、信長は紀伊雑賀衆を討伐するため入洛した。十三日に近江おうみ伊勢いせ五畿内ごきない山城やましろ大和やまと河内かわち和泉いずみ摂津せっつ)、越前えちぜん若狭わかさ丹後たんご丹波たんば、播磨から集結し六万の軍勢で出発した。雑賀衆は雑賀荘さいかのしょう十ヶ郷じっかごう中郷なかつごう南郷なんごう宮郷みやごうの五つの地域集団に分かれており、信長は中郷、南郷、宮郷の三つの地域の調略に成功していた。本願寺の武力を損なわすためにも、信長は残る雑賀荘と十ヶ郷を攻略したかった。しかし雑賀衆は無敗の傭兵隊である。敵は一万に満たないが六万が全滅する可能性もあると信長は考えていた。十五日に若江城、翌日には岸和田に陣を張った。付近の門徒勢はこの大軍に驚き海から逃げ出した。志立(泉南市信達しだち)で全軍を山側と海側に分けた。まず雑賀荘と中野城なかのじょう(和歌山市)を攻略する作戦である。二月二十八日、五日目で中野城は降伏した。だが、雑賀荘へ攻撃した隊は難航し、苦戦を強いられた。

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