戦国本願寺 第九章 各地での攻防
1577年(天正5)雑賀荘を攻めた織田信長は苦戦を強いられた。雑賀荘は小雑賀川を挟み柵木で固められ、信長軍が川の真ん中にたどり着いたとき雑賀荘は一斉攻撃の銃弾を放った。川中央部の底に壺を敷き詰め、足場に障害を与えていた。馬が脚をとられ、馬乗り衆は進軍が遅れた。二月二十八日に陥落した中野城の生存者から、信長が女性・子供も含めた大量虐殺を行ったという情報が入ったため、雑賀荘も必死の戦いとなった。三月一日、潮が大潮になると雑賀衆は予測していた。小雑賀川は干上がってしまうと猛攻撃されるので全軍総攻撃の手はずを整えた。三月一日正午には完全に水が無くなり、同時に信長軍は六万の軍で総攻撃を仕掛けた。一時間もすると信長軍は死者を増やしつつも数で攻め、雑賀衆たちは川沿いの砦から雑賀崎に撤退し、信長は雑賀荘を占領したが戦況は膠着状態であった。思いの外、雑賀攻めに時間を要したため、信長は三月十五日に誘降の手段をとったが、これは名ばかりで和睦であった。雑賀荘はまだ戦力を残していたがこれを受け入れた。三月二十一日、信長は雑賀衆に制裁することなく撤退し、二十七日に安土桃山城へ帰った。五月二十日、信長は岸和田城の織田信張から雑賀の鈴木孫一が安土城へ来たと知らされる。これによって調略の手はずが整った。
一方、毛利輝元は三木、明石、高砂(いずれも兵庫県)を攻略し、四月二十三日播州室津(たつの市)に着き、播州制圧へと動いた。毛利軍も戦力に長けていたが御着城(姫路市)の小寺政職が毛利に勝ったことによって、毛利は動きが悪くなった。また八月十七日、信長にとって思ってもいなかった出来事が起こった。松永久秀が信長に謀反をおこし本願寺勢に荷担して、信貴城(生駒市)に籠城した。信長は使者を送り真相を問いただそうとしたが、久秀は使者を送り返した。久秀は部下のほとんどが逃げたために、本願寺に応援を求め使者を送った。しかし、この使者が裏切り信長配下の佐久間信盛の陣所へ行った。十月十日に信貴城は陥落し、一族、臣下二百四十人が切腹した。このような事件が起きたが、本願寺の主戦力は先の雑賀討伐で打撃を受けてもなお、雑賀衆に変わりはなかった。
秋になると北陸では戦況が一気に加速した。上杉謙信の猛攻によって、加賀から能登、さらには越前まで一気に進出した。謙信は七月に能登に入り、七月二十七日七尾城(七尾市)を包囲した。信長は柴田勝家に七尾城を助けるため一万の兵を送り水島(白山市)に着いた。しかし勝家は謙信の侵攻状態が凄まじいものであり、退却せねば甚大な被害を被ると判断したため、全軍撤退の命令を出した。謙信は翌日三万七千の軍で水島へと行ったが、既に退却済みであったため落胆したという。謙信は南下して加賀に到着すると門徒勢七千の兵を増強する。信長は北の庄(福井市)まで退くよう命じた。この北陸の主要地域を悉く突破し、ついに信長軍は近江まで退いた。信長は闇雲に謙信と戦っても兵を失うだけと思い謙信討伐の好機をうかがっていた。十月、謙信は自国に退き帰った。信長はこの頃北陸よりも中国地方に重点を置いていた。
羽柴秀吉は十月十九日、播磨攻めのために長浜城を出発した。七千という小勢であったが、黒田官兵衛らの力添えもあり、福岡城、上月城(両城佐用町)を攻め養父へと向かった。最大の目的は生野銀山の奪取であった。播磨諸国の地侍に今回の進行は領土拡大ではなく、毛利と揉めれば播磨が被害に遭うので播磨防衛の後見役をするとの大義を伝えた。この地域の地侍は常に毛利の脅威を感じていたので秀吉に協力することとして、人質を差し出した。しかし佐用郡(佐用町)・宍粟郡(宍粟市)・揖西郡(揖西町)・揖東郡(太子町)・赤穂郡の地侍は呼応しなかった。しかし秀吉の別働隊の動きとしては上々であった。この地域の地侍は鉄砲を使用する実戦の経験がなかったため、その破壊力を知るとたちまちに降伏した。こうして、養父、朝来の城は簡単に陥落した。次第に七千の小勢から一万の播磨兵を加え一段落がついた。こうして十二月半ばに兵を引き上げ、生野銀山の銀貨八百貫を持ち帰り1578年(天正6) の正月を迎えた。しかし播磨では地侍たちが戦準備を始めていた。秀吉の留守を任された竹中半兵衛が三木城に硝煙のほか、堺や雑賀の鉄砲などが運び込まれていることに気がついた。半兵衛はすぐさま警戒の態勢を取ったが一万の兵が精一杯。播磨地侍全軍でこられたらひとたまりもない。こうした中、安土城では雪が溶けたら能登、加賀北部を制圧した謙信が攻めてくる情報を握った。だがこの年の三月九日、謙信は出陣の寸前で倒れて十三日には亡くなる。
二月二十三日、秀吉は加古川城(加古川市)に戻り対毛利の作戦会議を行ったところ、別所吉親(※)と衝突してしまい袂を分かった。別所長治の配下であった加古川周辺の六城主は籠城し、東播磨八郡の小城主は城を焼き払い、七千五百の兵が三木城に籠城した。秀吉はこれらと戦うことになった。
※ 別所吉親の「吉」は正しくは上半分が「土」