戦国本願寺 第十章 石山本願寺の敗北
1578年(天正6)三月、織田信長は毛利輝元を攻略するために、播磨攻めを羽柴秀吉に命じた。本願寺は淡路島の岩屋に雑賀衆を配置させて守備を固めていたが、現地で毛利勢と雑賀衆の小競り合いが度々起き、増援に遅れが出ていた。この状況で四月四日、信長軍は織田信忠が本願寺を襲撃した。信長は本願寺の内部崩壊を狙っていた。本願寺内の門徒は降参すれば命は助けるが、僧侶や本願寺内の権力者は徹底的に潰せという命令を出した。また本願寺周辺の麦は悉く捨てられた。一方で四月中旬に毛利軍は備中松山(高梁市)に本陣を置き中国山陰地方総動員六万の軍で秀吉のいる播磨を攻めた。秀吉は軍師といわれた黒田官兵衛、竹中半兵衛と共に戦略を練るが上手くいかない。信長に現状を書状で伝えると信長自身が出馬しようとしたが、播磨は地形の難しさから長期戦がみられたので他の家来に止められた。四月二十日本願寺を攻めている信忠にも直ぐさま播磨へ急行せよと命じた。こうして四万の増援が播磨入りしたが秀吉を助ける動きがない。これは織田家一門以外の秀吉に対しての嫉妬であった。悪天候も続き、竹中半兵衛は調略の手立てを考え、黒田官兵衛と関係があった備前八幡山城主、明石飛騨守景親に頼み宇喜多直家に内通しこれを成功させる。しかし、秀吉の戦況は良くならず後退を繰り返し六月二十一日に毛利勢に決死の攻撃を行ったが大敗した。信忠が攻めている三木城(三木市)も攻略に難航している中、毛利勢は水軍を三木城近隣に集結させ補給の態勢を整えていた。信長は以前から伊勢の九鬼嘉隆に鉄の船を作るように命じていた。これがなければ毛利水軍に勝てないと思っていた。間もなく完成して六月二十七日、五千の兵を搭乗させた鉄甲船は熊野浦から進水し七月中旬には大阪湾に入った。本願寺もこれを察知して紀州雑賀門徒に呼びかけたが、実際にその船を見て人々は圧倒された。雑賀水軍の攻撃にビクともしなかった。これによって木津を制圧した信長は本願寺の兵糧を一切遮断したことによって大打撃を与えた。九月十三日、信長は上洛してから末日には堺に行き九鬼の船に乗った。これによって堺の町衆たちに信長の武力をみせしめたことになった。
十月、信長に摂津を任されていた荒木村重が本願寺に寝返った。毛利と荒木が本願寺に荷担すれば畿内情勢が一気にひっくり返る可能性が生まれたので、さすがの信長も慌てた。木津を封鎖している鉄甲船がいるが、実際の制海権は毛利水軍のものであった。信長は使者を送り村重に謀反をやめるよう説得した。村重も使者には信長に同意した素振りをみせたが、実際は既に毛利と同盟を結んでいた。信長は朝廷を使い本願寺と和睦を試みたが、本願寺は毛利との同盟を理由に断った。同時に村重の説得もあの手この手で試みたが失敗に終わる。村重に時間を使う中、本願寺も木津を封鎖され食糧難に陥った。十一月六日村重と同盟した毛利水軍が総力六百の船団で兵糧を積み、六艘の鉄甲船と一艘の大安宅船、数十の小型船が展開する木津に現れた。この海戦は鉄甲船という過去に例のない海戦になるので双方戦ってみなければ分からないものであった。戦況は最初、毛利が小型船を一掃して大安宅船も攻略した。信長水軍はじっくり敵を引き寄せて鉄甲船の砲門と鉄砲が火を放つとたちまちに毛利水軍が壊滅した。開始からわずか四時間の出来事であった。こうして信長は大阪湾を制圧して本願寺はさらなる窮地に立たされる。また信長は村重の裏切りを許すことなく、一族諸共に残酷な制裁を行い顕如に対して重圧を与えた。この流れに際して大阪湾で敗北した毛利軍は戦意喪失した。
1579年(天正7)五月十一日、三年の年月をかけて安土桃山城が完成したことで信長は居住を移した。この頃、茨木、高槻、川西、西宮、芦屋、神戸を攻め周辺に城砦を多く建設した。この年の十二月十三日村重に仕えていた者数百名を処刑し、十二月十六日村重一族の処刑を六条河原にて行った。毛利はこれ以上本願寺と同盟を結ぶことは出来ないと判断した。その中、信長は朝廷を使い本願寺と和睦の段階に入っていた。十二月二十五日の事であった。1580年(天正8)秀吉が苦戦の末に三木城を攻略したことによって本願寺は孤立した。二月二十七日信長は京都から出陣し、三月二日に本願寺の東方を進み有岡城(伊丹市)へ帰った。顕如に対して石山本願寺明け渡しの威嚇であった。しかし顕如は信長の命令に従わず、籠城することしかできなかった。信長は和睦を取り下げ五万の軍を摂津に展開した。本願寺はここで応戦すれば石山本願寺だけではなく浄土真宗という宗門存続の危機に関わることになると考え最終的には明け渡しに応じることになった。