戦国本願寺 第一章 石山本願寺を狙う者
本願寺中興の祖、八代蓮如から九代実如、十代証如の時代には山科本願寺で布教伝道をしていたが、蓮如の死から三十三年後の1532年(天文1)八月、京都の法華一揆が近江守護職六角定頼と呼応して山科を焼き払った。十七歳の証如は御真影を守り、宇治の田原岩本の道場を経て翌日に大坂石山御坊へと渡り、ここを本願寺と定めた。元々は蓮如が堺の湊へ巡教したときに自らの隠居として堂宇を建立したものである。ここは淀川、中津川、大和川、百済川、狭山川が流入するデルタ地帯で守備に最適な位置であった。
鉄砲が伝来した1543年(天文12)、のちの本願寺十一代顕如が誕生した。1555年(天文23)、得度をして十一代に就いた。証如が亡くなる前日のことであった。
この時代から数十年前に一向一揆が勃発する。最初は文明年間 (1469-1487) に起こったとされている。全国三十万の百姓門徒が地侍の支配に屈しない力を持ちはじめていた。その後、地侍も国人門徒へと発展し、領主と対立する流れとなった。顕如の時代に門徒たちは加賀、北陸、中部、近畿へと広がり、坊主大名と化した。
戦国時代の猛者であった織田信長は、早くから武士階級の恐るべき敵として一向一揆を捉えていた。1562年(永禄5)、信長と同盟を交わす徳川家康が領国三河の一向宗を討滅しようとしたが、敗北寸前の苦戦を強いられた。小領主は家康と主従の縁で結ばれ、本願寺とは信仰の絆が結ばれていた。戦国の動乱は戦に限らず、現代の当たり前という感覚は何一つ無い。火災、水害、流行病、飢饉、貧困といったものが民衆とは隣り合わせの生き地獄のような世の中であった。多くの人々が信仰へと流れ着いたのは、その状況からすれば当然の選択だったのではなかろうか。
1565年(永禄8)、松永久秀、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)に暗殺された十三代将軍、足利義輝の弟であった足利義昭が1568年(永禄11)に信長を頼りに美濃へ向かった。十四代は松永、三好に擁立された義輝の従兄弟である義栄であったが、義昭は自分が将軍の正統であると主張した。
信長は妹のお市を北近江の浅井長政に嫁がせ地盤を固めてから、岐阜城より京都へ向かう。猛攻の末に上洛して、義昭とともに摂津、河内、大和を攻略する。畿内を鎮圧した後に義昭が征夷大将軍の座に就く。この功績から義昭は副将軍の地位を与えようとしたが信長はこれを辞退する。さらなる野望へ進むため1568年(永禄11)十二月に殿中御掟を作り将軍幕府の権限を制限して自らが天下の政治を執り行えるように仕向けていった。
信長は義昭の住む二条城の建設に着手した。二万人以上の人夫を使い、足りない資材は洛中洛外より石像をも使い短期間で完成させた。京の町衆はこれに大いに驚いたという。
また同年に信長は摂津、和泉の寺社に矢銭を課した。これによって本願寺は五千貫を納めた。本願寺は信長と友好を保とうと努力してきた。しかし、上洛以後は石山本願寺の明け渡しといった無理難題を押しつけてきた。本願寺は三好三人衆と同盟を結び態勢を整えた。十四代義栄を擁立した三好三人衆は京都に居づらくなったが和泉には一万余力の兵があった。越前守護、朝倉義景とも連絡を取り地盤を固めた。
信長は1570年(元亀1)四月に幕命に背いた件で朝倉を三万の兵で攻め、越前金ヶ崎城を攻略したが信長側の浅井長政、六角義賢が朝倉側に寝返ったため退却。六月に近江の六角義賢が柴田と佐久間の信長勢に敗れ、姉川の合戦で浅井と朝倉の連合軍が、信長と家康の連合軍に敗れる。
三好三人衆は七月二七日、本願寺と共同戦線を張るために、摂津中之島、天満森、野田、福島に城砦を築く。八月、信長は六万の兵で大坂へ向かった。