顕如
顕如 (1543-1592) 浄土真宗の僧侶。本願寺四祖の一人。
誕生
顕如は、1543年(天文12)1月6日に誕生する。本願寺第10代証如の長男として生まれる。幼名は茶々、諱は光佐である。母は庭田重親の女、顕能尼。顕如の両親はともに蓮如の曽孫にあたる。顕如の生まれた年はポルトガル船が種子島に着き鉄砲を伝えた年である。まさに戦国の動乱の最中に誕生した。
本願寺継職
1553年(天文22)10月2日から修学を始め、翌年の夏に証如がマラリアで倒れ8月13日に亡くなる。この前日に顕如は得度した。このころ、歴代宗主は青蓮院で得度することが定められていた。しかし急な出来事のため青蓮院から許可を得て重体の証如が自ら剃髪をした。顕如は第11代宗主となった。
結婚と子供たち
1557年(弘治3)
細川春元の養女と結婚し、顕如の妻は如春尼と称した。三男一女をもうけた。
1558年(永禄1)
9月16日、後に真宗本廟を別立した名を光寿、法名を教如と称す長男が誕生した。
1560年(永禄3)
女児が誕生した。しかし14歳で急死する。
1564年(永禄7)
1月22日、名は佐超、法名を顕尊と称す次男が誕生した。顕尊は5歳で同寺内町にある興正寺を継職した。
1577年(天正5)
7月19日、後に本願寺第12代宗主となる名は光昭、法名を准如、と称す三男が誕生した。
社会的地位を上げる本願寺
1559年(永禄2)12月15日、顕如が十七歳の時に門跡を勅許された。門跡とは寺格の最高位を示す。本願寺が社会的地位の向上を目指す中で顕如の僧位も昇進して、晩年1585年(天正13)には大僧正に任じられた。門跡に認められた2年後1561年(永禄4)宗祖親鸞の300回忌法要を勤修した。盛大な法要で本来は11月(旧暦)の命日だが翌年の3月まで勤修した。
火災と復興、その後
1562年(永禄5)寺内町が火災にあう。本願寺は焼失を免れたが、1564年(永禄7)12月26日本願寺御影堂、阿弥陀堂が焼失する火災にあった。興正寺は燃えなかったので顕如は移った。御影堂は1496年(明応5)に蓮如が建立し、阿弥陀堂は1542年(天文11)証如が新築したものであった。顕如は本願寺を再建するため動き出した。再建は様々な職人衆1626人の力を合わせた。驚くことにわずか十ヶ月程で完成し、この年の報恩講に間に合った。ちなみに平成の御影堂修復には十年を要した。その後、顕如は教団の最盛期を築くことになる。本願寺教団の弱体化を狙う織田信長に対して反信長の戦国武将と友好関係を作り上げ、石山合戦へと時代は突入していく。そして十年余りの歳月を費やし信長に敗れ石山本願寺を退去する。
石山合戦の後
顕如は鷺森(和歌山市)に移る。そもそも体は丈夫ではなかった顕如は体調が悪くなってきた。1583年(天正11)湯治するために有馬温泉へ。さらに有馬から京都、奈良を回遊した。この回遊で顕如は体調を整えた。ただ湯治に出向いていただけではなく、京都、奈良の寺社に金品を寄進し友好を目的とした。この頃本願寺は、鷺森 (1580-1583)、貝塚 (1583-1585) 、天満 (1585-1591) と移った。1587年(天正15)顕如の病は一進一退であった。この年に顕如は後継者を准如と決めた。1591年(天正19)2月3日准如の得度式を行った。本願寺を京都(現在の本願寺)に移した翌年1592年(天正20)11月24日宗主在職39年、50歳にて往生する。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗本願寺派 法式規範(改訂版)』(浄土真宗本願寺派 勤式指導所 本願寺出版社 1999年)
[4] 『本願寺第十一代顕如宗主夫人如春尼の生涯』(籠谷真智子 晃洋書房 1991年)
[5] 『図録 顕如上人余芳』(本願寺史料研究所 本願寺出版社 1990年)