墓じまい、仏壇じまい (2)
仏壇じまい
前回の「墓じまい、仏壇じまい (1)」では「墓じまい」について書きました。今回は「仏壇じまい」について書いていきます。お墓とお仏壇では役割が違いますから、それらを撤去する行為の持つ意味合いも当然異なってきます。
礼拝の対象
コラム「どこへ向かって手を合わせるのか」に書いたように、浄土真宗において私たちが礼拝する対象は阿弥陀仏(阿弥陀如来)です。位牌でも過去帳でもご遺体でもご遺骨でもありません。そちらを向いてお念仏していたとしても、本当に礼拝の対象になっているのはその先におられるご本尊の阿弥陀仏です。
お仏壇はそのご本尊をご安置する場所です。ご本尊は本来目に見えない阿弥陀仏を形に表したものであり、お仏壇は本来目に見えない浄土を形に表したものです(参考:仏教知識「仏壇」)。ですから「仏壇じまい」をするということは、礼拝の対象となるご本尊が自宅から失われるということを意味します。
撤去せざるを得ない場合
現実問題としてお仏壇が大きすぎるために家に置くことが難しいということはあると思います。そのような場合、ご本尊だけをご安置する方法もあります。壁に絵像(阿弥陀仏が描かれた掛け軸)を掛けるだけでも構いませんし、携帯型のものあります(携行本尊)。ご本尊さえご安置されていればそこはお浄土だと私は思います。もちろん、お仏壇があった方がよりお浄土らしくはなるのですが。
買い換えの際にお仏壇を処分される場合は自治体の指示に従われるとよいでしょう。購入された仏壇店にご相談されるのもよろしいかと思います。その際に「お性根抜き」は必要ありません。遷仏法要については望まれるならば勤められるとよいでしょう(参考:コラム「「お性根入れ」「お性根抜き」」)。
しかし、代わりになるものを置くこともせず完全に自宅からご本尊を撤去してしまう場合はどうでしょうか。これはつまり、浄土真宗を信仰することをやめるということになります。
「仏壇じまい」をしたくなる理由
「仏壇じまい」をされる方は本当に浄土真宗を辞める覚悟を持ってそのように決断されているのでしょうか。私は必ずしもそうではないと思います。お仏壇を「阿弥陀仏を礼拝するためのもの」ではなく「ご先祖を祀り、護るためのもの」と捉えられているから「仏壇じまい」という発想が出てくるのではないでしょうか。「私にはこれ以上ご先祖をお祀りすることができませんから、今後は他の誰かに供養してもらうことにします」ということだと思います。この場合の供養とは追善供養のことでしょう。前回の記事や仏教知識「供養」でも書きましたが浄土真宗では追善供養は行いません。しかし、私としては多くの方が浄土真宗に求められているものは追善供養のような気がしてなりません。
追善供養
この追善供養の問題については、私としてはまずは追善供養をきっかけとして浄土真宗に触れていただき、いずれは教えの深い部分についても関心を持っていただければいいと思っています。また、そうなるよう勧めていくのが私たち僧侶の役目とも思っています。あくまで追善供養は方便という捉え方です。しかし、方便だけに留まってしまってはいないでしょうか。もし追善供養としての葬儀や法事を勤めるだけであれば、浄土真宗の僧侶としては不十分だと思います。
ただ、このことを明言するのはなかなか勇気のいることです。「阿弥陀さまを礼拝するのが浄土真宗の教えです」とは言いやすいですが、「故人を拝んでいるわけではないんですよ」とはちょっと言いづらいですよね。特に身近な方を亡くされた悲しみの中にある方にそれを言うわけにはいきません。ですが、いずれは阿弥陀さまの方を向いていただけるように努めなければいけません。もちろんその際、傷つけることのないよう言い方には細心の注意を払う必要があると思います。
まとめ
ここまで書いてきましたように「墓じまい」についてはやむをえないことだと思います。故人とのご縁になる存在が失われるのは残念ですが、拝む人がいなくなりお世話をする方がいなくなったお墓は荒れていく一方です。一方「仏壇じまい」を希望される方には「他ならぬあなた自身は阿弥陀さまのことをどうお考えなのでしょうか」と尋ねてみたいところです。これは責めたいわけではなく、浄土真宗、そして阿弥陀さまに真剣に向き合っていただきたい気持ちからそう考えています。わけあって既にお仏壇を手放された方にもいずれまた仏教、そして阿弥陀さまに出遇われるご縁があればと思います。お仏壇を手放されても人生はまだまだ続きます。
今回私はお墓とお仏壇の役割の違いから出発し、このような考えに至りました。これからも門徒さんのお話に向き合い、いろいろなことを考え続けていきたいと思います。