墓じまい、仏壇じまい (1)
最近、門徒さんから「墓じまい」「仏壇じまい」という言葉を何度かお聞きしました。流行なのでしょうか。どうやらテレビでも特集があったようです。言葉の意味を推測すると、お墓やお仏壇を撤去してしまうことを指しているのでしょう。自分が亡くなった後に管理を引き継いでくれる人がいない、もしくは引き継がせたくない。だから自分がまだ元気な間に自らの手で撤去する手続きをしてしまおう。そんなところではないかと思います。
これについて私なりに思うところを書いていこうと思います。まずお墓とお仏壇を分けて考えましょう。
墓じまい
一般的にお墓とは故人の遺骨を納めるところだといえるでしょう。ではお墓に向かって手を合わせる行為にはいったいどのような意味があるのでしょうか。『浄土真宗辞典』によれば墓とは
亡くなった人の遺体や遺骨を納めるところ
(『浄土真宗辞典』P.543より)
です。また、
故人を偲び、故人も遺族もともに阿弥陀仏の慈悲に包まれていることに感謝する縁となるもの
(『浄土真宗辞典』P.543より)
と説明されています。ここで重要なのは、故人のために手を合わせてはいるけれど、その行為によって故人を救っているわけではないということです。コラム「どこへ向かって手を合わせるのか」にも同じようなことを書きましたが、浄土真宗において私たちを救ってくださる(私たちにさとりを開かせてくださる)のは阿弥陀さまのはたらき(他力)です。煩悩まみれの凡夫である私たちが念仏・合掌・読経などによって故人を救う、もしくは自らを救う(自分の力でさとりへと到達する)ことはできないのです。『歎異抄』によれば親鸞聖人は
親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、かつて一度もありません。
(中略)
念仏が自分の力で努める善でありますなら、その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、念仏はそのようなものではありません。(『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』P.10-11より)
と言われました。そしてこの後、亡くなった方々を救うはたらきが可能になるのは浄土に生まれてさとりを開いた後のことであると続けられます。生きている間は煩悩まみれの凡夫の身ですから、人々を救うことはまだできないんですね。
ですからお墓は先ほど『浄土真宗辞典』に書かれていたように故人を偲ぶためのものであり、それと同時に阿弥陀仏の救いについて考えるきっかけとなるものなんですね。お墓があっても無くても故人はもう救われています。極端な話、お墓が無くてもいいんです。亡くなられた方々はそれぞれの遺骨が納められた場所に眠られているわけではありません。浄土へと生まれ、さとりを開き、生きている方々を仏道へと導いてくださっています。
しかし、だからといって人はそう割り切れるものではありません。遺骨に対する思いは人によってさまざまです。故人と自分とを結びつける縁となってくれる存在ともいえるでしょう。遺骨につきましてはコラム「遺骨の取り扱い」やコラム「ずっとそばにいてほしい」もお読みいただけると幸いです。
お墓は拝んでナンボ
私個人としてはお墓は故人のためにあるものというよりは、それを拝む人々のためにあるものだと思っています。「拝む人のいなくなったお墓にはいったいどれほどの存在意義があるのか」と言い換えてもいいでしょう。このような考えから私としては墓じまいを否定的に捉えてはいません。
墓じまいをする場合はどうすればいいか
お墓を撤去してしまう場合は具体的にどうすればいいのでしょうか。細かいことはそれぞれの墓地の管理者に問い合わせていただくといいと思いますが、遺骨の行き先として私からは「大谷本廟」を紹介しておきます。西本願寺公式の墓地といってもいいでしょう。大阪なら「津村別院(北御堂)」もあります。それぞれ祖壇納骨、永久納骨を選べば(返却してもらえない方式で)遺骨を納めることができます。浄土真宗にご縁のあった方にとっては良い場所ではないかと思います。もちろん、その他にご縁のある施設がありましたらそちらへ納められても良いと思います。
仏壇じまい
次に仏壇じまいについてですが、こちらは率直に言いますと私はあまり肯定的に捉えてはいません。続く(2)でお話ししていきたいと思います。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』(浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1998年)