ずっとそばにいてほしい

【ずっとそばにいてほしい】

ある門徒さんが長年悩まれていた。大切なご家族を亡くされて葬儀をされた施主せしゅさんである。葬儀後、還骨かんこつ法要の時に相談を受けた。当初その内容は、納骨のうこつをいつ行えばよいのかというものであったが、詰まるところ、「ずっとそばにいてほしい」との思いで、納骨をせずに遺骨を自宅に置きたいということであった。浄土真宗本願寺派ではいつまでに納骨を済ませなければならないという取り決めはない(コラム 「遺骨の取り扱い」参照)。唯一決まっていることは国の法律、「墓地、埋葬等に関する法律」(昭和23年5月31日法律第48号)において、

第3条 埋葬又は火葬は、他の法令に別段の定があるものを除く外、死亡又は死産後24時間を経過した後でなければ、これを行つてはならない。但し、妊娠七箇月に満たない死産のときは、この限りでない。 厚生労働省ホームページ参照)

と、亡くなってから24時間以内の埋葬まいそうは行ってはならないと定められている。これは法律上の手続きであり、法律上や医学上に意味があっても宗教上には意味をもたない。

その日は、本願寺派においては「いついつまでに」という決まりはないということだけを施主さんたちにお伝えした。そして、二七日ふたなぬか以降の中陰ちゅういん法要で、どうしてもご家族の死を受け入れられない施主さんの苦悩が見えてきた。「納骨すると死を認めたことになる」「亡くなったという実感はない」など、施主さんとお話しする中で「ずっとそばにいてほしい」との理由がわかってきた。故人はすでに浄土じょうどへと往生おうじょうされているのだが、施主さんにとっては、浄土に往生などしてほしくない(なかった)のである。生きて自分のそばにいてほしい。つまり、故人は往生されているのだが、施主さんにはその往生が、悲しみの中の喜びとは実感できなかったのである。

満中陰まんちゅういん法要の際に、私はご家族と親族に「お納骨は、いついつまでにしなければいけないということもありませんし、慌てることはないので、施主さんのお気持ちの整理がついてからにしませんか?」との提案をした。施主さんは、悲しみの表情の中、にっこりとうなずかれた。

ところが、三回忌さんかいきになると親族たちが、「いったいいつまで納骨しないのか」「そんなことだから、いつまでも故人を忘れられず悲しみに暮れているのだ」「納骨をして早く忘れろ」などの「忠告」が多くなってきた。挙句あげくてには、「そんなことをしていたら災いがおこる」「あなたはいいが、我々に何か災いが起こったらどうしてくれるのか」とその「忠告」はエスカレートしていく。何のことはない、「忠告」の内実ないじつは施主さんやその家族の悲しみをどのように解決していけば良いのかと考えてのことではなく、自分たちを「不幸」の道連れにしてほしくないという身勝手なものであった。私は、改めて「お納骨は、いついつまでにしなければいけないということもありません。」ということと、「『遺骨』に家族や親族、その他の人びとに災いをもたらすという力はありませんし、故人は浄土に往生されていて、納骨の有無によって故人の行くすえが変わることもありません。」とお伝えした。私の力不足ではあるが、親族たちは納得したというわけではなく、その場はしぶしぶあきらめたという状況であった。

それから22年、二十五回忌法要の際、お勤めが終わった時に施主さんが、「納骨したいと思います。日程の合う時に納骨法要をお願いします。」と穏やかで、にこやかな表情で話して下さった。私は、その表情の中に施主さんが大切なご家族の死を受け入れて、なおかつ故人が浄土に往生したことを喜べる時期がやってきたのだと感じることができた。それは私にとっても喜びとなった。

「ずっとそばにいてほしい」と遺骨を自宅に置いておられたが、自宅に遺骨がなくとも「ずっとそばにいてくれている」と感じられる日がきた。そのように感じられるようになることの年月には個人差がある。一方でこのようなケースとは全く異なり、亡くなった家族のことを大切に感じることができない人たちもいる。誰しも人それぞれに様々な個人差があり、個々の価値観を押し付けられてはたまらない。ましてや、自らの都合によりその価値観を押し付けることがあってはならない。

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