『安心論題 十四』- 称名報恩
「安心論題(十七論題)」に設けられた論題の一つ。称名報恩はその14番目に位置づけられる。
なおこの記事はあくまで安心論題に規定される「称名報恩」の項を解説したものである。「真宗の本棚」では仏教知識「称名報恩」を別途設けており、そちらでは称名報恩の意味の他に宗祖親鸞滅後の本願寺第3代覚如、第8代蓮如の解釈が説明されている。併せてご参照いただきたい。
また内容を見れば明らかなように、論題「称名報恩」は論題「信心正因」と密接に関わっている。仏教知識「『安心論題 五』- 信心正因」も参照のこと。
題意(概要)
本願(第十八願)には信心と称名念仏とが誓われている。衆生が阿弥陀仏の浄土に往生して成仏するための因は信心ただ一つであり、称名念仏すなわち「南無阿弥陀仏」と称える行為はその因とはならない。
また称名念仏は称える私たちの心持ちからいえば、阿弥陀仏の救いの光の中に摂め取られている我が身をよろこび、その感謝の思いがあふれて声となってあらわれてきたものである。
これらのことを明らかにするのがこの論題である。
出拠(出典)
称名報恩を表す文は「正信念仏偈」(※1)の中に現れる。
弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る。
ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.205より、下線は筆者が引いた)
【現代語訳】
「阿弥陀仏の本願を信じれば、おのずからただちに正定聚に入る。
ただ常に阿弥陀仏の名号を称え、本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよい」と述べられた。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.147より、下線は筆者が引いた)
- ※1 正信念仏偈
- 宗祖親鸞の著した『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)「行文類」の末尾に記された偈文。浄土真宗本願寺派においては「三帖和讃」と共に「正信偈和讃」として日常的に勤められる。
下線部を読めば称名して報恩せよと書かれていることがわかる。また、『教行信証』「化身土文類」には次のように述べられる。
ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.413より、下線は筆者が引いた)
【現代語訳】
ここに久しく、本願海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い恩徳に報いるために、真実の教えのかなめとなる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称え、いよいよこれを喜び、つつしんでいただくのである。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.529より、下線は筆者が引いた)
下線部「不可思議の徳海」は称念される名号「南無阿弥陀仏」のことであり、これを恒常に称えるというのはすなわち称名ということになる。そして、「至徳を報謝せんがために」この称名を行うのであるから、この文は称名報恩について述べたものということができる。
その他、本願寺第3代覚如や同じく第8代蓮如の著作にも称名報恩を意味する文が多数現れるが、ここでは親鸞のものだけを挙げておく。
釈名(語句の定義)
称名
称名とは詳しくいえば仏名を称念する、つまり南無阿弥陀仏を口に称えることである。これを「称念仏名」という。ただし、ここでいう称名とは第十八願(本願)文に誓われている「乃至十念」のことであり、信をいただいた後の念仏、つまり他力の念仏のことである。以下に第十八願文の漢文と書き下し文を引用する。なお引用のやり方は仏教知識「四十八願」の「個々の願文について」に準じる。下線は筆者が引いた。
設我得佛・十方衆生・至心信樂・欲生我國・乃至十念・若不生者・不取正覺・唯除五逆・誹謗正法
(『佛事勤行 佛説淨土三部經』P.31 より)
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.18より)
報恩
報恩とは言葉通りに読めば恩に報いるということであるが、称名という行為によって恩返しをするわけではない。ここでいう報恩とは南無阿弥陀仏と称える私たちの心持ちを示すものであり、阿弥陀仏の救いに摂め取られている我が身をよろこぶ感謝の想いのことをいう。
義相(本論)
信心と十念
本願には三心(信心)と十念(念仏)が誓われているが、十念には乃至という言葉がつき、数が限定されていない。つまり念仏を称える行為は往生・成仏の可否に何ら関わっていないということである(仏教知識「『安心論題 五』- 信心正因」「信心が先、称名が後」参照)。また、第十八願成就文には信心をいただいた時に即時に因が満足し、亡くなった後に浄土に往生し、成仏できることが決まる(仏教知識「即得往生」参照)ことが述べられている。つまり信心こそが正因であり、念仏は正因ではない。
また称名念仏とはその本質からいえば阿弥陀如来の救いの力・はたらきそのものが活動しているすがたであるが、これを称えている私たちの心持ちからいうと、阿弥陀如来の救いの中に摂め取られていることを感謝する心や喜ぶ心の発露である。つまり称えるという行為を役立たせて往生成仏を期待するものではない。
称名報恩の伝統
親鸞に至るまでの浄土教の伝統において称名念仏はおおむね正定業(往生という結果を引き起こす原因となる力・はたらき)として位置づけられている。しかし称名念仏を報恩行だと示す文も皆無ではない。その一つに龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』「易行品」の文が挙げられる。なおこの文については仏教知識「称名報恩」の「龍樹菩薩、道綽禅師から親鸞聖人への称名報恩の展開」に詳しく解説されているのでここでは省略する。
そのほか『教行信証』「化身土文類」に次のように述べられる。
(前略)専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。(後略)」
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.412より)
【現代語訳】
(前略)もっぱら念仏しても、自力の心で励むものは大きな喜びの心を得ることができない。だから善導大師は『往生礼讃』に、「自力のものは仏の恩に報いる思いがなく、(後略)」(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.526-527より)
このように、親鸞は念仏一つを選び取りながら自力の心にとらわれているものは大きな喜びを得ることができないといっている。ここで引用元の『往生礼讃』を参照する。
もし専を捨てて雑業を修せんと欲するものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得。
(中略)
また相続してかの仏恩を念報せざるがゆゑに、(後略)
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.659-660より)
これによれば善導は念仏一つを選び取らずさまざまな行を並べ修する人が往生することが困難だと述べている。その後に困難である理由の一つとして先の文(「かの仏恩を念報することなし」)を示している。
これらを整理すると、善導は念仏一つを選び取らずさまざまな行を修める者について言及し、親鸞は念仏一つを選び取っているが自力の心にとらわれている者について言及している。親鸞にとってはたとえ念仏一つを選び取った者であっても、自力の心にとらわれているならばその者はさまざまな行を修める者と同じなのである。つまり自力念仏を修める者と自力諸行を修める者には報恩の思いが無いと考えた。言い換えると他力念仏を修める者には報恩の思いがあるのである。さらにいえば他力の称名念仏は報恩の念仏なのである。
その他、源信和尚や法然聖人にも称名報恩の説示がみられる。
報恩となる理由
称名が報恩となる理由について従来、仏徳讃歎(仏徳讃嘆)と仏化助成の二つが挙げられている。
仏徳讃歎
南無阿弥陀仏と称えることは、阿弥陀如来の徳をほめたたえることになる。これを仏徳讃歎という。仏教知識「仏徳讃嘆」も参照のこと。親鸞は『尊号真像銘文』に
「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは、仏をほめたてまつるになるとなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.655より)
と述べている。
仏化助成
称名念仏することは、阿弥陀如来が衆生を導く手伝いをしていることになる。これを仏化助成という。『蓮如上人御一代記聞書』に次のように述べられる。
(前略)尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候ふをききては、人が信をとると、
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.1262より)
【現代語訳】
(前略)文字も知らない尼や入道などが、尊いことだ、ありがたいことだと、み教えを喜ぶのを聞いて、人々は信心を得るのである」と、(『浄土真宗聖典 蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』P.68より)
ここでは素直に念仏をよろこぶ姿が他の人に念仏の尊さ・ありがたさを知らせ、それがそのまま念仏を勧めることになるといっている。
しかし、だからといって、いちいち「今私は仏徳讃歎をしている」とか「これは仏化助成させていただいている」などと考えながら南無阿弥陀仏と称える必要はない。あくまでも如来への感謝のおもいからの念仏が報恩の念仏なのである。
努力の可否
また、同じく『蓮如上人御一代記聞書』に次のように述べられる。
蓮如上人仰せられ候ふ。信のうへは、たふとく思ひて申す念仏も、またふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。他宗には親のため、またなにのためなんどとて念仏をつかふなり。聖人(親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。そのうへの称名は、なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ云々。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.1287より)
蓮如上人は、「信心をいただいた上は、尊く思って称える念仏も、また、ふと称える念仏も、ともに仏恩報謝になるのである。他宗では、亡き親の追善供養のため、あるいはまた、あれのためこれのためなどといって、念仏をさまざまに使っている。けれども、親鸞聖人のみ教えにおいては、弥陀を信じおまかせするのが念仏なのである。弥陀を信じた上で称える念仏は、どのようであれ、すべて仏恩報謝になるのである」と仰せになりました。
(『浄土真宗聖典 蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』P.114より)
ここにあるように、他力の信心をいただいた上で称える念仏は、何かに役立たせるための手段として用いる念仏ではない。このような念仏を報恩の念仏というのである。
しかし、努力して念仏すること自体は問題ない。どれほど努力して念仏を励んでも、その力を役立たせようとする心が全く無いのであればそれは決して自力として否定されるものではない。
同じく『蓮如上人御一代記聞書』には次のように述べられる。
仏法のこと、わがこころにまかせずたしなめと御掟なり。こころにまかせては、さてなり。すなはちこころにまかせずたしなむ心は他力なり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.1250より)
【現代語訳】
〈仏法のことは、自分の心にまかせておくのではなく、心がけて努めなければならない〉と蓮如上人はお示しになった。愚かな自分の心にまかせていては駄目である。自分の心にまかせず、心がけて努めるのは阿弥陀仏のはたらきによるのである(『浄土真宗聖典 蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』P.43より)
ここでは私たちの怠け心にまかせるのではなく、念仏を心がけてこそ、如来の救いをよろこぶもののすがたということができると述べられている。努力をするとついそのことを誇りたくなってしまうものであるが、念仏に関してはいくら努力したとしてもただ阿弥陀如来のご恩をよろこぶのが他力の念仏、報恩の念仏だといえる。
結び(結論)
称名念仏、すなわち南無阿弥陀仏と称えるという私たちの行為は、決して救いの因(たね)として役立たせようというものではなく、ただ阿弥陀如来の恩をよろこぶ気持ちがあふれ出たものでしかない。
参考文献
[2] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[3] 『佛事勤行 佛説淨土三部經 (第二十刷)』(浄土真宗本願寺派 教学振興委員会 2003年)
[4] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[5] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[6] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[7] 『浄土真宗聖典 蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』(本願寺出版社 1999年)