信一念釈 (4)
親鸞は、三一問答を最後にまとめるにあたって本願成就文の一念についてさまざまな語句に転回しながら発展的な解釈をしていく。いずれも第十八願(本願)の信心の異名であることから、これを「転釈」という。
宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。願海平等なるがゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.252より)
【現代語訳】
善導大師が「専念」といわれたのは、念仏一行のことである。「専心」といわれたのは、二心のない一心のことである。すなわち、本願成就の文に「一念」とあるのは二心のない心、すなわち専心である。この専心は深い心、すなわち深心である。この深心は深く信じる心、すなわち深信である。この深信は堅く信じる心、すなわち堅固深信である。この堅固深信はゆるぎない心、すなわち決定心である。この決定心はこの上なくすぐれた心、すなわち無上上心である。この無上上心は真実の徳を持った心、すなわち真心である。この真心は生涯たもたれる心、すなわち相続心である。この相続心は淳朴で飾り気のない心、すなわち淳心である。 この淳心は常に仏を思う心、すなわち憶念である。この憶念はまことの徳をそなえた心、すなわち真実一心である。この真実一心は広大な法を受けた喜びの心、すなわち大慶喜心である。この大慶喜心はまことの心、すなわち真実信心である。この真実信心は金剛のように堅く決して砕かれることのない心、すなわち金剛心である。この金剛心は仏になろうと願う心、すなわち願作仏心である。この願作仏心は衆生を救おうとする心、すなわち度衆生心である。この度衆生心は衆生を浄土に往生させる心である。この心は大菩提心である。この心は大慈悲心である。 なぜなら、はかり知れない阿弥陀仏の智慧によって生じるからである。阿弥陀仏の本願が平等であるから、阿弥陀仏より回向された信心も平等である。信心が平等であるから、その信心にそなわる智慧も平等である。智慧が平等であるから、慈悲も平等である。この大慈悲をそなえた信心が、浄土に至ってさとりを開く正因なのである。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.234-236より)
転釈
親鸞はまず善導の「散善義」から「専念」と「専心」を引き、本願成就文の「一念」を専心であるとした。これは「行文類」の行一念釈において、同様の解釈をしている。そして、専心から最後の大慈悲心まで十九句を挙げて転釈を施していく。
① 専心
一心(無二心)。本願を疑いなく受け容れる心。
② 深心
『仏説観無量寿経』に説かれた第二心。
③ 深信
「散善義」による。深心と深信については仏教知識「深信(二種深信)」を参照。
④ 堅固深信
「散善義」による。どんなことがあっても決して壊されない堅固な信心。
⑤ 決定心
「散善義」による。どんなことがあっても揺らぐことのない信心。二種深信の「決定して深く信ず」より転釈。
⑥ 無上上心
このうえなくすぐれた心。
⑦ 真心
「序分義」の「真心徹到」による。如来より回向された真実心。
⑧ 相続心
『安楽集』による。生涯にわたって絶え間なく続く信心。
⑨ 淳心
『安楽集』による。自力が混じらない淳朴な信心。
⑩ 憶念
本願を疑いなく受け容れ、常に仏を心に思い浮かべている信心。
⑪ 真実の一心
他力の真実を二心なく受け容れた信心。
⑫ 大慶喜心
『仏説無量寿経』による。真実の信心を獲たことをおおいに喜ぶ心。
⑬ 真実信心
『往生礼讃』による。如来の真実心(仏心)が回向された信心。信楽。
⑭ 金剛心
如来より回向された信心は、決して破壊されることのない信心であることを示す。
⑮ 願作仏心
仏になろうと願う心。自利の成就。
⑯ 度衆生心
衆生を済度しようと願う心。利他の成就。
⑰ 摂取衆生安楽浄土心
衆生を摂取して浄土に往生させようと思う心。
⑱ 大菩提心
『往生論註』による。如来より回向された信心は、⑮願作仏心と⑯度衆生心によって自利と利他の完成を願い、⑰摂取衆生安楽浄土心によって衆生を浄土に往生させようとする大菩提心であると示している。
⑲ 大慈悲心
一切衆生の苦悩を取り除き、真実の安楽を与えようと願う心。如来より回向された信心には、如来の大菩提心が回向されているとともに、如来の大慈悲心も回向されていることを示す。
そして、親鸞はこのすべての「心」が阿弥陀仏の「無量光明慧」(はかり知れない光のように衆生に届く智慧)から生まれる信心であると結論づけた。
そして、この信心が浄土往生の正しい因となることが示される。この部分は曇鸞の『往生論註』より転用されているが、曇鸞が法蔵菩薩の発心(願心、菩提心)の平等性を示しているのに対し、親鸞は曇鸞の「諸法平等」を「願海平等」と書き換えることによって、本願を疑いなく受け容れる信心の平等性について示し、如来より回向される信心は法蔵菩薩の発心と同じく菩提心がそなわっているとした。また、最後の結論も法蔵菩薩の成仏(阿弥陀仏と成ったこと)の正因が法蔵菩薩の大慈悲心であるとしているのに対して、親鸞は衆生の往生成仏の正因が如来の大慈悲心が回向された信心であることを示している。このような親鸞の主張は、明恵(1173-1232)(仏教知識「高弁(明恵)」参照)が著した『摧邪輪』で指摘された「菩提心の撥去」に対する反論として構築された。
信一念釈の結び
ゆゑに知んぬ、一心これを如実修行相応と名づく。すなはちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.253より)
【現代語訳】
こういうわけであるから、 衆生の一心は、 如実に行を修め、 本願に相応するといわれるのである。 これが正しい教であり、 正しい義であり、 正しい行であり、 正しい領解であり、 正しい行業であり、 正しい智慧である。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.237-238より)
まず、親鸞は信一念釈の結びを置く。ここでの「一心」は、衆生が疑いなく受け容れる本願力回向の信心のことであり、それが「如実」(如来の本願のいわれを正しく受け容れる)「修行」(他力回向の念仏を正しく称名する)「相応」(称名と仏意が正しく一致する)であると示し、「一心=如実修行相応」とした。そして、その一心こそが正しい教え(正教)、正しい法義(正義)、正しい行体(正行)、正しい領解(正解)、正しい行業(正業)、正しい智慧(正慧)であると讃(たた)え、信一念釈を結ぶ。
三一問答の結び
三心すなはち一心なり、一心すなはち金剛真心の義、答へをはんぬ、知るべしと。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.253より)
【現代語訳】
本願の三心はすなわち一心であり、 その一心はすなわち金剛の真心であるということについて答えおわった。 よく知るがよい。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.238より)
続いて、三一問答の総結が置かれる。本願の三心は信楽の一心におさまり、その信楽の一心には如来の大菩提心と大慈悲心が回向されているので、何ものにも破壊されることがない金剛のような真実の信心であることを示し、これをもって三一問答の総合的な結論とした。
参考文献
[2] 『親鸞の教行信証を読み解くⅡ ―信巻―』(藤場俊基 明石書店 1999年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2004年)
[4] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[5] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[6] 『浄土真宗聖典 浄土文類聚鈔 入出二門偈頌(現代語版)』(本願寺教学伝道研究所 聖典編纂監修委員会 本願寺出版社 2009年)
[7] 『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室 <聖典編纂担当> 本願寺出版社 2004年)