信一念釈 (2)
ここでは、親鸞が「信の一念」に施した「時剋釈」と「信相釈」について解説する。
時剋釈
それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
ここをもつて『大経』(下)にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.250より)
【現代語訳】
さて、 まことの信楽について考えてみると、 この信楽に一念がある。一念というのは、 信心が開きおこる時のきわまり、 すなわち最初の時をあらわし、 また広大で思いはかることのできない徳をいただいたよろこびの心をあらわしている。そこで 『無量寿経』に説かれている。
すべての人々は、 その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき (信心歓喜乃至一念)、 その信は阿弥陀仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、 浄土へ生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、 不退転の位に至るのである
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.231より)
時剋とは時間のことをあらわし、「一念」を時間的な意味で解釈することを時剋釈と呼ぶ。上記の文章では
一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.250より)
と書かれた部分が時剋釈である。つまり、「一念」とは阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく信じ受け入れる信心の開発(開け発こ)される最初の時間の「極促」(きわまり)である、とする解釈のことである。また、この「極促」の「促」の文字については次の二種類の解説がなされてきた。
① 延促対
『浄土文類聚鈔』にある
また「乃至一念」といふは、これさらに観想・功徳・遍数等の一念をいふにはあらず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり、知るべし。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.480より)
【現代語訳】
また「乃至一念」というのは、阿弥陀仏やその浄土の功徳を観察することや、称名の数などについての一念をいうのではない。往生のための信と行を得る時節の長短について、「乃至一念」というのである。よく知るがよい。(『浄土真宗聖典 浄土文類聚鈔 入出二門偈頌(現代語版)』P.9より)
という文章に即して解釈する説。この場合の「延」は「のびる」の意味で、信心を一生涯相続していくことをいい、「促」は「ちぢまる、つづまる」の意味で、信心が開け発こった瞬間と解釈する。つまり、「極促」とは「生涯相続する信心がつづまった極限のこと」(『聖典セミナー 教行信証 信の巻』P.312より)ということである、とする説。
② 奢促対
『尊号真像銘文』にある
「機有奢促者」といふは、機に奢促あり、「奢」はおそきこころなるものあり、「促」は疾きこころなるものあり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.668より)
【現代語訳】
「機有奢促者」というのは、教えを受けるものには、「奢促」があって、「奢」とは理解の遅いものがいることをいい、「促」とは理解の速いものがいることをいう。(『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』P.48より)
という文章に即して解釈する説。この場合の「促」は「とき」=「速い」という意味になる。つまり、「極促」とは極めて速い(=同時)という意味であり、「本願を聞き受けて、真実信心が成就することと、往生が決定することが、同時に成立すること」(『聖典セミナー 教行信証 信の巻』P.315より)が「時剋の極促」である、とする説。
どちらにせよ、「一念」が信心が開けおこった「時剋の極促」を「顕」(文字の当分に示されている意味)し、その結果として「広大難思の慶心」(私たちの思いやはからいを超えた広大な仏徳をいただいたことをよろこぶ心)を「彰」(文字の当分には見えない隠れた意味)す、という親鸞の一念のとらえ方は変わるわけではない(「顕彰」の使い分けについては仏教知識「顕彰隠密」を参照)。
信相釈
しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.251より)
【現代語訳】
ところで 『無量寿経』に 「聞」 と説かれているのは、 わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、 疑いの心がないのを聞というのである。 「信心」 というのは、 如来の本願力より与えられた信心である。 「歓喜」 というのは、 身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。「乃至」 というのは、 多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。 「一念」 というのは、信心は二心がないから一念という。これを一心というのである。この一心が、すなわち清らかな報土に生れるまことの因である。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.233より)
信相釈とは、「一念」を真実の信心のすがたとして解釈することをいい、上記の文章では
「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.251より)
と書かれた部分が信相釈である。親鸞は、一念とは二心(疑いのこころがまじること)がない唯一無二の信心のすがたであり、だからこそ一心という。そして、一心であるからこそ、清らかな真実の報土(浄土)に往生するまことの因となる、とした。なお、仏教知識「信一念釈 (1)」でも述べたとおり、この信相釈は『顕浄土真実教行証文類』の「行巻」における行相釈と対の関係になっている。このことから、のちに一心(疑いのない信心)をもって一行(雑行を棄てて正行を選ぶ)を修する一行一心が「浄土宗(※1)の真実の宗義」、すなわち「浄土真宗」であり、行相釈と信相釈は「宗釈」「義釈」とも呼ばれている。
- ※1 浄土宗
- ここでいう浄土宗は「阿弥陀仏の選択本願により救われていく往生浄土の教え」という意味であり、「法然を宗祖とする宗派」のことではない。
参考文献
[2] 『親鸞の教行信証を読み解くⅡ ―信巻―』(藤場俊基 明石書店 1999年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2004年)
[4] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[5] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[6] 『浄土真宗聖典 浄土文類聚鈔 入出二門偈頌(現代語版)』(本願寺教学伝道研究所 聖典編纂監修委員会 本願寺出版社 2009年)
[7] 『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室 <聖典編纂担当> 本願寺出版社 2004年)