肉食妻帯
肉食妻帯とは肉食と妻帯を合わせた言葉である。蓄妻瞰肉・持妻食肉ともいう。肉食と妻帯の個別の説明についてはそれぞれ仏教知識「肉食」、仏教知識「妻帯」を参照のこと。
女犯肉食
肉食と妻帯はもともと別々のものである。これらが一緒に扱われるようになった背景には女犯肉食という言葉があった。これは浄土真宗が他宗派から批判されるときに使われたもので、法然教団を批判した1205年(元久2)の『興福寺奏状』には「専修念仏の者たちは、女犯・肉食をしても往生の妨げにはならないと主張している」と書かれている。
第八損釋衆失。専修云、「圍基・雙六不乖專修、女犯・肉食不妨往生。(略)」
(『浄土真宗聖典全書(六) 補遺篇』P.772より 一部漢字は筆者が新字体に直し、レ点等は省略した)
江戸時代
肉食妻帯という単語は江戸時代に出てきたものであり、宗祖親鸞の著書には用いられていない。江戸時代の直前にはいわゆる石山合戦(コラム「戦国本願寺」シリーズ参照)があり、浄土真宗教団は織田信長らと争っていた。しかし江戸時代に入ると、教団は存続のために幕府との対立を避けるようになった。「女犯肉食を平気で行う危険な集団」として弾圧されないように肉食妻帯という言葉が生み出され、これを弁明するような書物がいくつも作られた。ここではその一つとして浄土真宗本願寺派第2代能化(※1)の知空(1634-1718)が著した『真宗肉食妻帯弁』(『真宗全書』第46巻 P.293-318)を紹介する。次のような内容になっている。
『真宗肉食妻帯弁』
肉食妻帯の正当性
まずさまざまな戒律や経典を参照し、仏教では最初は肉食が容認されていたこと、『涅槃経』が説かれた後は厳しく禁じられたこと、しかし『涅槃経』が説かれる以前に亡くなった者は肉食しながらにして入滅(さとりの境地に至ること)したこと、病を治すために肉食が許容されたこと、三種の浄肉(仏教知識「肉食」参照)が許可されたことなどを挙げている。これにより、僧侶が肉食することはそう咎められるようなことではないと述べた。
親鸞の肉食妻帯
次に親鸞の肉食妻帯の正当性を示すための説明を行っている。まず過去の名僧たちが肉食妻帯した例を挙げる。次に経や律を参照し、これらの中には肉食を禁止する内容も許容する内容も書かれているのでどちらが正しいと決めつけるのは誤りであると述べた。さらには人々を教化するためには教化する側も方便として人々と同じような生活をしていく必要があるといい、親鸞が市井の人々に混じって教えを説いてくれたからこそ我が宗派は繁昌し、今(当時は江戸時代)の日本では人数にして 2/3 もの人が浄土真宗の教えに入っていると述べた。
さらに玉日伝説(仏教知識「妻帯」の「玉日」参照)を紹介し、親鸞は自分の欲望を満たすために妻帯するような人ではなく、人々に念仏の教えの正しさを理解してもらうためにあえて在家同様の身となり妻帯したのだと述べた。また観音菩薩のお告げ(※2)から考えて玉日も凡夫ではないだろうといった。このことから我が宗派の肉食妻帯は並大抵のことではなく、衆生済度(人々を救うこと)という勝れた理由があるのだから咎められるようなことではないとした。
浄土真宗の肉食妻帯
果てには他の宗派とは違い浄土真宗では妻を1人に限っていること、こそこそと隠れて肉食したりしないことからかえって慚愧の徳がある(反省の心があるだけ偉い)とまで主張した。またこの末法の時代においては僧侶が妻帯していた方がかえって人々が親近感を持つようになり、教えを聞いてくれるようになるともいっている。教えを弘めるために行っていることだからこれは諸仏や諸天の御意にもかなっており、だからこそ我が宗派はこのように繁昌しているのだと述べた。
「生類憐れみの令」への迎合
しかしこのように肉食妻帯の正当性を訴える一方、あくまでこれは教えを弘めるためだから許されているのであって、好んでこれをしてはいけないと誡めている。そして悪事を好むこともいけないとし、たとえ小さな悪であっても悪を恐れよ、たとえ小さな善であっても善を修めよと述べた。さらには他宗から見ても親鸞は如来の化身であるのだから、その流れをくむ我々僧侶が狩猟や漁労を行うのは言語道断だとまでいった。
知空がこのように述べた背景には当時出されていた「生類憐れみの令」と呼ばれる諸法令があった。第5代将軍徳川綱吉が出したもので、動物の殺生を禁止するものである。親鸞の教えは屠沽の下類(仏教知識「肉食」参照)である猟師・漁師・商人であっても浄土へと往生できるというものであるから、明らかにこれに反していた。だから当時の学僧たちは綱吉の怒りを買わないために教えを曲げてまでこのようなことを言わざるを得なかった。
そしてこの書物の最後では浄土真宗の肉食妻帯を謗る他宗の者に対して強く反論し、文句があるならいつでも相手になると主張した。
- ※1 能化
- 浄土真宗本願寺派の学寮に置かれた終身制の役職。1名がこれに就き、宗派における教学の第一人者となった。学寮とは僧侶の修学機関であり、1638年(寛永15)に設立された。承応の鬩牆の結果1655年(明暦元)に取り壊されたが非公式には存続しており、1695年(元禄8)には学林として再興された。1922年(大正11)に龍谷大学となった。
- ※2 観音菩薩のお告げ
- 「もし行者が過去からの因縁により女犯の罪を犯してしまうなら、わたしが玉女(美しい女)の身となりその相手となろう。そして一生の間よく支え、臨終には導いて極楽に往生させよう。」という内容。仏教知識「妻帯」の「玉日」および仏教知識「聖徳太子]」の「行者宿報の偈」も参照のこと。
以上のように知空は肉食妻帯の正当性を主張し親鸞を神格化し、また他宗派からの批判に反論した。また幕府への迎合もみられ、下線部では親鸞の教えからかけ離れた廃悪修善(仏教知識「悪人正機(1)」の「善人正機・悪人傍機」参照)の教えを説いている。親鸞の時代には「屠沽の下類」のための教えを説いていた浄土真宗だったが、この頃には殺生をさほど意識せずとも生活していくことができる人々のための教えを説くように変わっていったといえる。
『高田開山親鸞聖人正統伝』
また、1717年(享保2)に真宗高田派の良空 (1669-1733) が著した『高田開山親鸞聖人正統伝』(『真宗全書』第34巻 P.325-P.415)という親鸞の伝記がある。この書物は後の親鸞のイメージを決定づけた。ここにも『真宗肉食妻帯弁』と同様、親鸞が衆生済度のために肉食妻帯し、そのために多くの人々が浄土真宗の教えに帰依し教団が繁栄したこと、また親鸞の結婚の話として玉日伝説が書かれている。
明治5年以降
1872年(明治5)4月25日、明治政府は僧侶の妻帯や肉食に関する法律(「太政官布告第133号」)を出した。これにより僧侶が肉を食べること、結婚すること、髪を伸ばすこと、法要以外の際に一般の服装をすることが自由とされた。
○ 第百三十三號(四月二十五日)(布)
自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可爲勝手事
但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事(『明治五年 法令全書』P.93より、国立国会図書館デジタルコレクション参照)
この他にも僧侶が姓(苗字)を持つことが命じられた。明治時代には江戸時代までの武士や貴族のように平民も平等に姓を名乗れるようになったが、これが僧侶にも当てはめられた。それまでは僧侶が姓を持たないのは俗世間を離れた証であったため、これも僧侶たちに大きな影響を与えた。
○ 第二百六十五號(九月十四日)(布)
自今僧侶苗字相設住職中ノ者ハ某寺住職某氏名ト可相稱事
但苗字相設候ハヽ管轄廳ヘ可届出事(『明治五年 法令全書』P.193より、国立国会図書館デジタルコレクション参照)
これらは明治新政府による宗教改革の一環であり、僧侶たちが要求したものではなかった。政府は僧侶の特権を奪い、僧侶を出世間の存在ではなく一職業として扱うようにし、納税・兵役等の国民的な義務を負わせた。
※ なおここの引用文は文献の画像を元に筆者が記した。元の画像が粗いため旧字・異体字等が正確に再現できていない可能性がある。
法律の影響
仏教各宗派にはこの法律に反発する動きもあったが、結局はこれを容認し肉食妻帯を行うようになっていった。浄土真宗では江戸時代においても肉食妻帯を許可されていたため、この法律を契機として日本仏教全体が「真宗化」していったといえる。現在もこの延長上にあり、日本の多くの僧侶が肉食妻帯を行っている。もちろん浄土真宗では一切禁止されていない。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典全書(六) 補遺篇』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2019年)
[4] 『真宗全書 第46巻』 (https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950307?tocOpened=1) (国立国会図書館デジタルコレクション)
[5] 『真宗全書 第34巻』 (https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950295?tocOpened=1) (国立国会図書館デジタルコレクション)
[6] 『明治五年 法令全書』 (https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952?tocOpened=1) (国立国会図書館デジタルコレクション)