一念多念文意 (2)

【いちねんたねんもんい 02】

前回に『いちねんねんもん』(以下 『文意』)の構成と要点を挙げたが、ここからはそれぞれのちゅうしゃくについて解説をしていく。また、原文と現代語訳の間に【親鸞しんらんの語句註釈】を挙げておく。

冒頭に一念いちねん往生おうじょうが間違いではないとして、ここから本書の中ごろまで一念往生のしょうもん(正しいことを証明するために引用する文)が挙げられている。そして最初に挙げたのは、善導ぜんどうの『おうじょうらいさん』からの引用であり、これはりゅうかんが『いちねんねんふんべつのこと』(以下 『分別事』)にも挙げているもんである。ただし、隆寛はこの文を「一念」「多念」にこだわってはならない証文としていることに注意しなければならない。

   一念をひがこととおもふまじきこと
ごうがんいっさいりんじゅう しょうえんしょうきょうしつげんぜん」(礼讃)といふは、「ごう」はつねにといふ、「がん」はねがふといふなり。いまつねにといふは、たえぬこころなり、をりにしたがうて、ときどきもねがへといふなり。いまつねにといふは、じょうにはあらず。じょうといふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり、ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬをじょうといふなり。「いっさいりんじゅう」といふは、極楽ごくらくをねがふよろづのしゅじょう、いのちをはらんときまでといふことばなり。「しょうえんしょうきょう」といふは、ぶつをもみたてまつり、ひかりをもみ、きょうをもかぎ、ぜんしきのすすめにもあはんとおもへとなり。「しつげんぜん」といふは、さまざまのめでたきことども、めのまへにあらはれたまへとねがへとなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.677より)

【親鸞の語句註釈】

  • 恒→つねに・常の義にはあらず
    • つねに→たえぬ
      • たえぬ→をりにしたがうて、ときどき
    • 常→つねなること・ひまなかれ・ときとしてたえず、ところとしてへだてきらはぬ
  • 願→ねがう
  • 一切臨終時→極楽をねがふよろづの衆生、いのちをはらんときまで
  • 勝縁勝境→仏をもみたてまつり、ひかりをもみ、異香をもかぎ、善知識のすすめにもあはん
  • 悉現前→さまざまのめでたきことども、めのまへにあらはれ

【現代語訳】
  一念いちねんということをちがいとおもってはならないこと。
 善導ぜんどう大師だいしが『おうじょうらいさん』に「ごうがんいっさいりんじゅ しょうえんしょうきょうしつげんぜん(つねに願はくは一切臨終の時、勝縁・勝境ことごとく現前せん)」とべられているのは、「ごう」は「つねに」ということであり、「がん」は「ねがう」ということである。ここで「つねに」というのは、えることがないという意味いみであるが、おりにふれ、その時々ときどきねがえというのである。だからここで「つねに」というのは、「じょう」の意味いみではない。「じょう」というのは、「つねに」ということであるが、なくつづけよという意味いみである。すなわち、どのようなときえることがなく、またどのようなところけたりきらったりすることがないのを「じょう」というのである。

 「いっさいりんじゅ」というのは、極楽ごくらく浄土じょうどへの往生おうじょうねがうすべてのものはいのちおわろうとするときまでという意味いみことである。

 「しょうえんしょうきょう」というのは、ほとけのお姿すがたはいけんし、その光明こうみょう、すばらしいかおりもかぎ、ぜんしきみちびきにもあいたいとおもえということである。

 「しつげんぜん」というのは、さまざまなすばらしいことが、まえあらわれてくださいとねがえということである。

(『浄土真宗聖典 一念多念文意(現代語版)』P.3-4より)

最初にごくらくじょうへのおうじょうを願うということは、なくではなく、途絶とだえながらも終わることなく続けることであると示している。絶え間なく願わなければならないのならば、ぼんにはとうていのうということであろう。そして「りんじゅう」についても親鸞独自の解釈となっている。「臨終時」とは、『分別事』でも見られるように、「臨終の時」と解釈するのが一般的であるが、親鸞はこれを「臨終の時まで」とした。これによって極楽浄土ごくらくじょうどへの往生を願い「しょうえんしょうきょう」があらわれるのは亡くなる間際まぎわの臨終の時ではなく、一念いちねんによって往生が定まった時から臨終の時までとなる。その一方で隆寛は親鸞とは異なり、臨終の一念を大切にする立場である。それは、常に平生の一念が臨終の一念であり、いのちがびればそれが多念になるとの解釈で、隆寛はこの文を「一念」「多念」にこだわってはならない証文としている。

次に『ぶっせつりょう寿じゅきょう』「ほんがんじょうじゅもん」を挙げている。これも『分別事』にも挙げられている文である。

 『りょう寿じゅきょう』(下)のなかに、あるいは「しょしゅじょう もんみょうごう しんじんかん ないいちねん しんこう がんしょうこく そくとくおうじょう じゅう退たいてん」ときたまへり。「しょしゅじょう」といふは、十方じっぽうのよろづのしゅじょうもうすこころなり。「もんみょうごう」といふは、本願ほんがんみょうごうをきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききてうたがふこころなきを「もん」といふなり。またきくといふは、信心しんじんをあらはすのりなり。「しんじんかんないいちねん」といふは、「信心しんじん」は、如来にょらいおんちかひをききてうたがふこころのなきなり。「かん」といふは、「かん」はをよろこばしむるなり、「」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「ない」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。「一念いちねん」といふは、信心しんじんをうるときのきはまりをあらはすことばなり。「しんこう」といふは、「しん」は真実しんじつといふことばなり、真実しんじつにょらいおんこころなり。「こう」は、本願ほんがんみょうごうをもつて十方じっぽうしゅじょうにあたへたまふのりなり。「がんしょうこく」といふは、「がんしょう」は、よろづのしゅじょう本願ほんがんほううまれんとねがへとなり。「こく」はかのくにといふ、あんらくこくををしへたまへるなり。「そくとくおうじょう」といふは、「そく」はすなはちといふ、ときをへず、をもへだてぬなり。また「そく」はつくといふ、そのくらいさだまりつくといふことばなり。「とく」はうべきことをえたりといふ。真実しんじつ信心しんじんをうれば、すなはちこうぶつおんこころのうちに摂取せっしゅしててたまはざるなり。せつはをさめたまふ、しゅはむかへとるともうすなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・をもへだてず、しょうじょうじゅくらいにつきさだまるを「おうじょう」とはのたまへるなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-)』P.677-679より)

【親鸞の語句註釈】

  • 諸有衆生→十方のよろづの衆生
  • 聞其名号→本願の名号をきく
    • きく→疑ふこころなきを・信心をあらはす御のり
  • 信心→如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり
  • 歓→身をよろこばしむる
  • 喜→こころによろこばしむる・うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころ
  • 乃至→おほきをもすくなきをも・ひさしきをもちかきをも・さきをものちをも
  • 一念→信心をうるときのきはまり
  • 至心→真実
    • 真実→阿弥陀如来の御こころ
  • 回向→本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のり
  • 願生→よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへ
  • 彼国→かのくに・安楽国
  • 即→すなはち・つく
    • すなはち→ときをへず、日をもへだてぬ
    • つく→その位に定(さだ)まりつく
  • 得→うべきことをえたり
  • 摂→をさめたまふ
  • 取→むかへとる

【現代語訳】
 『りょう寿じゅきょう』のなかには、「しょしゅじょう もんみょうごう しんじんかん ないいちねん しんこう がんしょうこく そくとくおうじょう じゅ退たいてん(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなわち往生を得、不退転に住せん)」ともかれている。

 「しょしゅじょう」というのは、あらゆるかいのすべてのいのちあるものという意味いみである。

 「もんみょうごう」というのは、本願ほんがんみょうごうくとおおせになっているのである。くというのは、如来にょらい本願ほんがんいて、うたがこころがないのを「もん」というのである。またくというのは、信心しんじんをおしめしになることである。

 「しんじんかんないいちねん」というのは、「信心しんじん」とは、如来にょらい本願ほんがんいてうたがこころがないことである。「かん」というのは、「かん」はによろこびがあふれることであり、「」はこころによろこびがあふれることである。すなわち、なければならないじょうおうじょうを、かならるであろうと、あらかじめおうじょうさきってよろこぶという意味いみである。「ない」とは、おおいのもすくないのも、ながあいだみじかあいだも、まえあとも、すべてふくめるということである。「一念いちねん」というのは、信心しんじんるそのときというかんてきなきわまりをあらわことである。

 「しんこう」というのは、「しん」とは、真実しんじつという意味いみことであり、その真実しんじつとは阿弥陀あみだ如来にょらいお心こころのことである。「こう」とは、真実しんじつとくをそなえた本願ほんがんみょうごうを、あらゆるかいいのちあるものにおあたえになるというおことである。

 「がんしょうこく」というのは、「がんしょう」とは、すべてのものは、本願ほんがんによってじょうじゅされた真実しんじつじょううまれようとねがえということである。「こく」とは、「かのくに」ということであり、あんらくこくしめしておられるのである。

 「そくとくおうじょう」というのは、「そく」は「すなわち」ということであり、ときることなく、くこともないという意味いみである。また「そく」は「つく」ということであり、そのくらいたしかにさだまるということである。「とく」はなければならないことをすでにたということである。真実しんじつ信心しんじんれば、ただちにこうぶつはそのおこころのうちにそのひと摂取せっしゅしてけっしておてにならないのである。「せつ」はおおさめになるということであり、「しゅ」はじょうむかるということである。おさってくださるとき、ただちに、ときることもくこともなく、しょうじょうじゅくらいたしかにさだまることを、「おうじょうる」とおおせになっているのである。

(『浄土真宗聖典 一念多念文意(現代語版)』P.4-7より)

まず「もんみょうごう」については、本願の名号を聞くことであり、聞くとは疑う心がないことであるとしている。これは聞くことそのものが信心しんじんであるという「もんそくしん」といわれる解釈である。また、「一念」は信心が得られる時間的なきわまりを表す言葉であるとして、その信心によって浄土往生が必ず得られるであろうとさきってよろこぶことを「かん」としている。また「しん」は真実であり、にょらいのお心であるので、「こう」の主体しゅたいは阿弥陀如来であると示している(仏教知識「三一問答 (1)」など参照)。「そくとく往生おうじょう」の解釈では、げんしょう(現世・この世)において浄土往生する意ととらえるのは間違いで、現生においてしょうじょうじゅくらい、すなわちいのちが終わったその時に、浄土往生することが約束された位に定まっていることであるとの確認である(仏教知識「即得往生」参照)。

隆寛は『分別事』で「本願成就文」の「一念」により往生ができる証文とすることにとどまっている。しかし、親鸞は「本願成就文」を詳細に解釈することにより、阿弥陀如来から真実を回向され、「一念」のきわまりに信心を得ることができるとした。また、信心を得た後は、浄土往生することが約束された正定聚の位に「現生」でつけるとして、親鸞独自の「念仏往生」についてあきらかにしている。

(つづく)

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『聖典セミナー 一念多念文意』(内藤知康 本願寺出版社 2014年)
[5] 『一念多念文意講読』(深川宣暢 永田文昌堂 2012年)
[6] 『一念多念文意講讃』(本多弘之 法蔵館 2012年)
[7] 『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』(本願寺出版社 2001年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)

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