一念多念文意 (3)

【いちねんたねんもんい 03】

次に『ぶっせつりょう寿じゅきょう』(以下 『無量寿経』)「だいじゅういちがんもん」のちゅうしゃくである。これは『いちねんねんふんべつのこと』には引用いんようされておらず、親鸞しんらんが追加引用したものである。

しかれば、ひっめつせいがん(第十一願)を『だいきょう』(上)にきたまはく、「せつとくぶつ こくちゅうにんでん じゅうじょうじゅ ひっめつしゃ しゅしょうがく」とがんじたまへり。また『きょう』(如来会・上)にのたまはく、「にゃくじょうぶつ こくちゅうじょう にゃくけつじょう じょうとうしょうがく しょうだいはんしゃ しゅだい」とちかひたまへり。このがんじょうじゅを、しゃにょらいきたまはく、「しゅじょう しょうこくしゃ かいしつじゅう しょうじょうじゅ しょしゃ ぶつこくちゅう しょじゃじゅ ぎゅうじょうじゅ」(大経・下)とのたまへり。これらのもんのこころは、「たとひわれぶつたらんに、くにのうちのにんでんじょうじゅにもじゅうして、かならずめついたらずは、ぶつらじ」とちかひたまへるこころなり。またのたまはく、「もしわれぶつらんに、くにのうちのじょう、もしけつじょうして、とうしょうがくりて、だいはんしょうせずは、ぶつらじ」とちかひたまへるなり。かくのごとくほうぞうさつちかひたまへるを、しゃにょらいじょくのわれらがためにきたまへるもんのこころは、「それしゅじょうあつて、かのくにうまれんとするものは、みなことごとくしょうじょうじゅじゅうす。ゆゑはいかんとなれば、かのぶっこくのうちには、もろもろのじゃじゅおよびじょうじゅはなければなり」とのたまへり。このそんのりをみたてまつるに、「すなはちおうじょうす」とのたまへるは、しょうじょうじゅくらいさだまるを「退たいてんじゅうす」とはのたまへるなり。このくらいさだまりぬれば、かならずじょうだいはんにいたるべきとなるがゆゑに、「とう正覚しょうがくる」ともき、「ばつにいたる」とも、「ゆいおっにいたる」ともきたまふ。「そくにゅうひつじょう」とももうすなり。このしんじつしんぎょうりきおうちょうこんごうしんなり。

(『浄土真宗聖典―註釈版―』P.679-680より)

【親鸞の語句註釈】

  • すなはち往生す→正定聚の位に定まる・不退転に住す・等正覚を成る・阿毘跋致に至る・阿惟越致にいたる
  • 真実信楽→他力横超の金剛心

【現代語訳】
 そのようなわけで、ひっめつせいがんを『りょう寿じゅきょう』におきになっている。すなわち「せつとくぶつ こくちゅうにんでん じゅうじょうじゅ ひっめつしゃ しゅしょうがく(たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ)」と、がんをたてておられるのである。

 また『にょらい』に、「にゃくじょうぶつ こくちゅうじょう にゃくけつじょう じょうとうしょうがく しょうだいはんしゃ しゅだい(もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ)」とおちかいになっている。

 このがんじょうじゅしたことを、しゃくそんは『りょう寿じゅきょう』におきになり、「しゅじょう しょうこくしゃ かいしつじゅう しょうじょうじゅ しょしゃ ぶつこくちゅう しょじゃじゅ ぎゅうじょうじゅ(それ衆生ありて、かの国に生るれば、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり)」とおおせになっている。

 これらのもんについて、まず『りょう寿じゅきょう』にかれたひっめつせいがんもんは、「わたしがほとけになるとき、わたしのくにひとびとかみがみしょうじょうじゅくらいにもさだまり、かならずさとりをることがないようなら、わたしはほとけにならない」とおちかいになっているというである。

 またつぎに『にょらい』におおせになっているのは、「わたしがほとけになるとき、わたしのくにのものが、とうしょうがくくらいたしかにさだまり、かならほとけのさとりをることがないようなら、わたしはほとけにならない」とおちかいになっているのである。

 そして、このようにほうぞうさつがおちかいになったことを、しゃくそんはさまざまなにごりにちたきるわたしどものためにおきくださったのであるが、そのもんおおせになっているは、「ぶつじょううまれようとするものは、みなことごとくしょうじょうじゅくらいさだまる。なぜなら、ぶつじょうにはじゃじょうじゅじょうじゅのものはいないからである」ということである。

 ぶつしゃくそんがおしめしになったこれらのおことをうかがうと、さきに「すなはちおうじょうる」とおおせになっているのは、しょうじょうじゅくらいさだまるということであり、それをまた、「退たいてんじゅうする」とおおせになっているのである。このしょうじょうじゅくらいさだまったなら、かならずこのうえないほとけのさとりをることができるとなるのであるから、そのことを『にょらい』では、「とうしょうがくくらいさだまる」ともおきになり、またりゅうじゅさつは、「ばついたる」とも、「ゆいおっいたる」ともかれている。そのことを「そくにゅうひつじょう」ともいうのである。

(『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』P.7-10より)

ここでは、ぜんだんの「ほんがんじょうじゅもん」の註釈をけて、「そくとくおうじょう」がしょうじょうじゅくらいにつくことであり、これを『無量寿経』と『りょう寿じゅにょらい』(以下 『にょらい』)(※1)、それぞれの「第十一願文」を比較検討し、続いて『無量寿経』の「第十一願じょうじゅもん」を引用してあきらかにしようとするものである。『無量寿経』での「正定聚」を『如来会』の「とうしょうがく」に当てはめて「マコトノホトケニナルベキミナリ」、さらに続く『如来会』の「だいはん」には「マコトノホトケナリ」とくん(※2)をほどこしている。そして、「第十一願成就文」を引用して、一般的には「かのくにしょうじるものは」と読むところを、「かの国にうまれんとするものは」とどくの読み方をして、正定聚の位につくことがげんしょう(今生きている世)であることを、また正定聚の位につく念仏ねんぶつの人をろくさつ(※3)と同じ存在であると示している。

次にげるのは、念仏の人と同じ存在である弥勒菩薩について、『無量寿経』「しゃかん」を引用して註釈を施しているところである。

しかれば、念仏ねんぶつのひとをば『だいきょう』(下)には、「にょろく」ときたまへり。ろくしゅこんごうしんさつなり、しゅもうすはたたさまともうすことばなり。これはしょうどうりきなんぎょうどうひとなり。おうはよこさまにといふなり、ちょうはこえてといふなり。これはぶつだいがんごうりきふねじょうじぬれば、しょうだいかいをよこさまにこえてしんじつほうきしにつくなり。「にょろく」ともうすは、「」はちかしといふ、つぎにといふ。ちかしといふは、ろくだいはんにいたりたまふべきひとなり。このゆゑに「ろくのごとし」とのたまへり。ねんぶつしんじんひとだいはんにちかづくとなり。つぎにといふは、しゃぶつのつぎにじゅうろくおくしちせんまんざいをへて、みょうがくくらいにいたりたまふべしとなり。「にょ」はごとしといふ。ごとしといふは、りきしんぎょうのひとは、こののうちにて退たいくらいにのぼりて、かならずだいはつはんのさとりをひらかんこと、ろくのごとしとなり。

(『浄土真宗聖典―註釈版―』P.680-681より)

【親鸞の語句註釈】

  • 弥勒→竪の金剛心の菩薩
    • 竪→たたさま(聖道自力の難行道)
  • 横→よこさま
  • 超→こえて
  • 本願他力→よこさまにこえて
  • 次→ちかし・つぎに
    • ちかし→大涅槃にいたりたまふべきひと
    • つぎに→釈迦仏のつぎに
  • 如→ごとし
    • ごとし→この世のうちに不退の位にのぼり

【現代語訳】
 ほんがんちかわれたこのしんじつしんじんりきおうちょうこんごうしんである。それで、りきねんぶつひとのことを、『りょう寿じゅきょう』には「にょろく(次いで弥勒のごとし)」とおきになっている。

 ろくさつしゅこんごうしんさつである。「しゅ」というのは、「たてざまに」ということである。これは、りきなんぎょうどうあゆしょうどうもんひとのことである。「おう」は「よこざまに」ということであり、「ちょう」は「こえて」ということである。これは、ぶつほんがんりきふねったなら、まよいのたいかいをよこざまにえてしんじつじょうきしにつくということである。

 「にょろく」というのは、「」は「ちかい」ということであり、「つぎに」ということである。「ちかい」というのは、ろくさつかならほとけのさとりをおひらきになるひとということである。だから「ろくおなじようだ」とおおせになっているのである。すなわちりきしんじんねんぶつしゃほとけのさとりにちかづくということである。「つぎに」というのは、しゃくそんつぎに、じゅうろくおくしちせんまんねんかならほとけのさとりをおひらきになるということである。「にょ」は「おなじようだ」ということである。「おなじようだ」というのは、りきしんじんているひとは、このですでに退たいてんくらいいたっており、かならほとけのさとりをひらくということが、ろくさつおなじようだというのである。

(『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』P.10-11より)

ここでは、弥勒菩薩とぼんのうまみれの私たちがなぜ同じ存在であるのかを、「信心しんじん」によって解説している。弥勒菩薩の信心は、しょうどうりきなんぎょうどう(竪 ※4)によってられたものである。一方で私たちの信心は、にょらいりきほんがん(横 ※5)によって得られたものである。それぞれ信心を得た方法は異なるのであるが、どちらの信心もゆらぐことない同じ「金剛心」(※6)であると註釈を施している。また、弥勒菩薩がじょうぶつ(仏になること)までにじゅうろくおくしちせんまんねんかかるのに対して、おうちょうの私たちは命が終わると同時に成仏することができると、他力によってたまわる信心のすばらしさを顕かにしている。

(つづく)

※1 『無量寿如来会』
 『仏説無量寿経』のやく(二巻)。とうだいやくで『だいほうしゃくきょう』(百二十巻)の「だい」にあたる。
※2 左訓
 しょうぎょうほんぶんに対するちゅう。本文の左側に語句の説明や漢字の読みをしるしたもの。
※3 弥勒菩薩
 しゃくそんにゅうめつ五十六億七千万年後に仏になるとされる菩薩。現在はそつてん(第四のてん)にじゅうしているとされる。兜率天でのしょうを終えて、らい成仏じょうぶつするので「いっしょうしょ(次のしょうがいで仏になれる)の菩薩」と呼ばれる。「弥勒」はサンスクリット(ぼん)のマイトレーヤのおんやく
※4 竪
 浄土真宗ではしょうどうもんの教え。(仏教知識「二双四重(二双四重判)」参照)
※5 横
 浄土真宗ではじょうもんの教え。(仏教知識「二双四重(二双四重判)」参照)
※6 金剛心
 ダイヤモンドのようにかたくてこわれない心。すなわち菩薩の心。浄土真宗では他力の信心にも使う。

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『聖典セミナー 一念多念文意』(内藤知康 本願寺出版社 2014年)
[5] 『一念多念文意講読』(深川宣暢 永田文昌堂 2012年)
[6] 『一念多念文意講讃』(本多弘之 法蔵館 2012年)
[7] 『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』(本願寺出版社 2001年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)

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